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旧国鉄 中央西線 旧線 中平隧道 後編

長野県木曽郡木曽町福島

訪問日 2009/1/23



寒い…。寒すぎる…。

子供の頃、とある真冬の雪が降ったある日。
学校が終わった放課後、下校前に友達らとやりあった雪合戦遊び…。

寒い中、ぐっちょぐっちょに濡れながら遊びつつも、この後、家へ帰る事(それまでの距離や時間)を考えると、もうそろそろ良い加減かな…、と、思いつつも、ついついその場の楽しさに負けて後悔した時の、あの寒さ…。

まさにそれだった。

今の私のヘボ体(へぼたい)は、所謂“低体温症”の一歩二歩手前だった…。
手の指が悴んで動かないのは当然だが、物は持てない。腕は上がらない。足は動かない。体の動きも堅い…。

寒さから来る震えが筋肉の運動量の許容範囲を越えて、もはや“硬直”に達していた。

隧道の写真を撮るのに夢中になり過ぎた…。

まあ確かに前編でも述べたが、この日は長野県の1月にしては暖かかった…。が、それはあくまでも陽向の気温で、暗闇の隧道の温度ではない。
そこへ持って上松側から木曽福島側へと隧道内を吹き抜ける風。
恐らく洞内の体感気温は色々鑑みて氷点下5~6℃以下であったであろう。写真のタイムスタンプを確認した所、車を降りて出発してから既に30分強を過ぎていた(隧道内には約10分強滞在している)

陽気が暖かくて、ジャンパーを着ていると汗ばむ。だから脱ぐ…、までは良かったが、だったらそのジャンパーを腰に巻いて来るのが正解だった。

慌ててこれは駄目だと隧道へと戻り、その先、上松側の国道19号脇に停めて来た我が愛車へと向かったのだが、もはや走る事も出来なかった…。
体力的に、と言うよりも、隧道へ入った時と違って今度は向かい風。
走るなり早く歩くと、向かい風で更に体感温度が下がって寒さに耐えられない…。
この時の私の様相を第三者、他人様からして見てみれば、各関節のネジが緩んだポンコツロボットのような歩き方だったと思う…。

まあそれでも何でも、何とかともかく、車まで戻り、すぐさまズボンのポケットの中にある車の鍵をモゴモゴしながら取り出し、キーロックの解除ボタンを親指で押す…。押す…。押す…。押す…。

あ、開かねえっーー!

指が悴んでいて力が入らない。
これで駄目なら直接キーを差し込むか…、と、もう一回キーボタンを押したら、解錠された。

「ふう…。やれやれ…」

と、ひと安心してドアノブを掴んだら…。

ど、ドアノブが開けられねぇっーー!力入らねえぇっーー!

握力ゼロ…。たかだか車のドアノブも開けられない体たらく…。
もはや悲劇を乗り越え、極上の喜劇である…orz

幸いに、車を停めておいた駐車スペースは陽当たりがとても良く、まるで何かの儀式のように、鍵の開いている我が愛車の周りをぐるぐる歩いていたら、体温がいくらか上がったようで両手掴みで何とか車のドアノブを開けられた。
そして呻きながら車内に入れば、さすが陽向に駐車してあっただけに、エンジンをかけてヒーターを入れなくとも充分に暖かかった(ちなみに出発したのはこの時点で約1時間前)そして約6分後に。

ふ~っかぁ~つ!


(注:上の写真は“復活の儀式”の後に、車ごと通り抜けた中平隧道の木曽福島側抗門。上に見える鋼桁橋は現国道19号バイパスの橋です)

以下教訓

「冬は厚着した方がいい」

と、今回の中平隧道の記事は、そんなくだらないネタを盛り込みつつ、そこそこ“数字”を挙げて、あっさりと終わらせる算段だったのだが、そうは行かなくなる、とある“疑問”を感じてしまった。

今回記事を書くにあたって「中央本線-Wikipedia」を読んでいたのだが、その中「5.1.2.3全通後」に聞き捨てならぬ文があった(以下聞き捨てならぬ部分を抜粋。及び読み易いように記号を変更したものを掲載)

「1979年(昭和54年)10月15日。木曽福島駅~中平信号場間を複線化(中略)1982年(昭和57年)9月29日。中平信号場~上松駅間を複線化。改キロ(-0.2km)中平信号場を廃止」

これは当レポの前編に登場した【中平信号場跡】にて同様文を載せているのだが、前編にあるこの文を読んだ時点で“ん?”と思われた方は何人居られるであろうか。
繰り返しになるが、昭和54年に“木曽福島駅から中平信号場の間”が複線化され、それから3年後の昭和57年の9月29日に【中平信号場から上松駅間】が複線化された事で、中平信号場が廃止されたという事になっている。

うむ…。てか、どういう事だ?これ?

昭和54年に木曽福島駅から中平信号場間を複線化って…。

(上松側より)

(木曽福島側より)
そんじゃあ、その木曽福島駅から中平信号場跡の間にある、この中平隧道は一体どうなるんだ?
どう見ても単線断面のこの隧道で、どうやって複線の運用をしていたんだ?

これは別日に撮影した、中平隧道を抜けた先。木曽福島駅側方向の旧線跡だが、複線化された痕跡はない。尚、写真右上に見える道が現国道19号バイパスで、木曽福島市街を通る旧道(現県道)は写真左側下を走る。
そして、現中央本線の新線は、複線断面の「木曽トンネル」は写真の右側、国道バイパスの更に右側にある山の中を通っている。

参考までに中平隧道側(上松側)はこんな感じ。
宅地化が進んで、もはや訳の分からない状態だが、中平隧道は写真中央やや右に見える家々の辺り、左に曲がる小道へ入るとある。

さてさて、鉄道にお詳しい方ならば、中央本線から出題されたこの複線化による“付け替えのトリック”などは、瞬時に見抜いてしまうのであろうが、鉄道に疎い私はしばらく混乱し、またその答えに達するまで多少の時間が掛かりつつ、やっと自らが導き出した答えにも自信が持てなかったのだ。

そこで鉄分に満ち溢れている【轍のあった道】の管理人である磯部祥行様にお伺い、ご教示を願った所、すぐさまご返答をいただけた。

以下恐縮ながら、お教えいただいた事を要約させて書かせていただくのだが、昭和の51年に新線の「木曽トンネル」が開通した事で新線は暫定的に下り線(名古屋行き)として運用が開始され、一方中平隧道がある旧線は上り線(塩尻行き)として使われた(とりあえず一応の複線化)
そして先述の通り、その後の昭和57年9月29日に中平信号場~上松駅間の複線化完了により、旧線上り線(中平隧道)も新線に移行(「木曽トンネル」による完全並行複線化)された事で、この中平隧道と中平信号場はお役御免となった、との事だった(磯部祥行様。教えてくれてありがとう!感謝なり!)


(信号場と新線の接続部分)
つまりは、写真に見える現在線は始めから並行複線化はされてはおらず、段階的な経緯を経て現在の姿に至ったのである。また中平隧道の鉄道用隧道における廃止年は昭和57年であるのも分かった。

基本的に上り下りの複線化工事などはない、道路の付け替え新道化とは違って、鉄道の付け替え複線化には旧線と新線のコンボがあるのは知ってはいたが、まさかこの場所がど真ん中の当該地。こんなにややこしい所とは思わってはいなかった。またそれ故自分が導き出した、自分なりの答えに自信が持てなかったのだが。

なるほど分かった!

追記。

同年(2009年)の10月18日に行ってみたら、中平隧道の木曽福島側は床屋に行った来たみたいでサッパリしていた…。

おわり。

(参考:「中央本線:Wikipedia」 「新潮社:鉄道旅行地図帳7号東海-全線全駅全廃線(7)」 「JTBキャンブックス:宮脇俊三(著)鉄道廃線跡を歩く7」 協力:磯部祥行さま)
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  1. 2011/06/07(火) 04:59:00|
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