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戦慄! 中央線辰野支線の踏切にある謎のリモコン!

長野県上伊那郡辰野町

訪問日 2012/10/15

href=“https://maps.app.goo.gl/ouAwoiffFZnpbsLg9">【地図】




ここは、中央本線辰野支線の桜町踏切。

中央本線“大八廻り”辰野駅から塩尻駅へ向かう路線の中で、一番最初にある人道踏切である。

踏切のド真ん中から、まずは辰野駅側。駅が近いだけあって広いな。

さて、先述の「大八廻り」なる言葉。
鉄道をちょっとでもかじっている人ならば誰しもがご存知な言葉であろうが、だからと言って「分からない人は自分で調べろ」みたいにスルーするのはちょっと乱暴な気がするので、敢えて簡単に説明する。

(こちらは同地点から塩尻駅方向を撮影)
現在、中央本線岡谷駅~塩尻駅間は昭和58年に開通した複線断面の総延長5994mの長大新線トンネル『塩嶺トンネル』が、塩尻峠に風穴を開けて(みどり湖駅経由で)直通しているが、そもそも中央本線東京駅~名古屋駅が開通したのは明治44年(岡谷駅~塩尻駅間が開通したのは明治39年)の事である。
明治の当時、岡谷と塩尻の間に立ちはだかる屏風のような塩尻峠を貫通させる隧道(トンネル)掘削技術はまさに“神の領域”であり、例えば同じ中央本線でも明治36年に竣工した総延長4656mの『笹子隧道』でさえ工事に難儀を究めた。
中央本線計画当初には塩尻峠を貫く隧道案があったみたいだが、どう見てもまだ乏しい明治期の隧道掘削技術の問題や、仮にまぐれで隧道が開通したとしても、電化が成されていない蒸気機関車が吐き出す煤煙の問題(長大隧道では排煙装置を設けないと運転士が窒息死する時代)で、運用は出来なかっただろう。
という訳で、中央本線は“巨大屏風”たる塩尻峠を避け、岡谷駅から一旦南下して辰野駅を経てから再び北上して塩尻駅(途中駅は信濃川島駅と小野駅)へと至る、総延長距離約28kmの迂回ルートを選んだ。
この、出来るかどうかも分からない約6000mに及ぶ夢の隧道を掘るよりも、地形(地質)的に現実的な28km(28000m)の迂回ルートを選ぶあたりが、いかにも明治感がして自分は好きなのだが、迂回そのものについての判断は、そりゃそうだろうと素直に思う。

では、そんな迂回ルートである「大八廻り」の名前の由来なのだが、明治の中央本線建設計画時に中央アルプスを挟んだ木曽谷ルートか伊那谷ルートかで、それぞれ地元からの猛烈な誘致運動があったが(これは最近のリニア新幹線の誘致と同じものだ)結果、中央本線は木曽谷ルートが選ばれた。

Wikipediaにおける「中央本線大八廻り」や、その中における「伊藤大八」またはその他ネットの情報によれば、明治の当時、鉄道局長を務めていた長野県下伊那郡上殿岡村(現在の飯田市上殿岡)出身の帝国議会衆議院議員の伊藤大八(安政4年~昭和2年)が、せめて伊那谷の一部にだけでも中央本線を誘致すべく奔走し、当時の国会の鉄道会議で争われていた先述の塩尻峠を貫く「塩嶺隧道(トンネル)」か、迂回する「辰野廻り」の二案うち、現地調査に立ち合った大八は、議案書に“独断”で「辰野経由」の文字を記した事で上伊那辰野への誘致に成功し、以来地元では大八の功績として同線を「大八廻り」と呼ぶ。と、されているが…。

これについては重ねて先に述べた通り、塩尻峠を貫く隧道建設(運用)の問題で、なにも伊藤大八が奔走し、更に議案書に独断カキコをしなくとも結局は辰野廻りの遠回りになっていたのではなかろうか?
まあこれについては、当時の生の声を知らないばかりか、特段「伊藤大八」について図書館に籠もって何らかの資料を調べた事など毛頭無い自分がどうこう言う事ではないが、伊藤大八の真の業績とは、中央本線の伊那谷誘致こそ夢に消えたが、すぐさま伊那谷ルートの別路線で、中央本線に代わる現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線を結果として通した(豊橋~辰野間は大八没後の昭和11年に全面開通した)事ではないのかな…、と自分は勝手(あくまでも勝手よ)に思っている。

今では「飯田線」の一言で終わる当該路線だが、明治から昭和初期にかけては「豊川鉄道」「鳳来寺鉄道」「三信鉄道」「伊那電気軌道(鉄道)」という、それぞれの私営鉄道会社が順々に建設し、また出来た路線から順々に運行をしていた(昭和18年に国有化された事で「国鉄飯田線」となり、各社は解散となった)
その中のひとつ、伊那谷にて明治42年に路面電車として開業し、その後延伸に延伸を重ねた事で昭和2年に天竜峡駅~中央本線辰野駅区間の開通乗り入れを開始した(天竜峡駅以南の路線の建設運営は先述の別会社「三信鉄道」が担当)長野県初の私営鉄道会社「伊那電気軌道(鉄道)株式会社」の創立に参加した南信の資産家、井原五郎兵衛(明治13年~昭和27年)は伊藤と同じ飯田の出身で、またその伊那電初の社長となった辻新次(天保13年~大正4年)は同じ信州は松本出身の官僚かつ実業家である。

伊藤大八の奔走(『涼宮ハルヒの~』みたいだが…笑)とは、それら地元有力者や飯田線の前身としてやがて1本の路線となる他の別会社3社との連絡調整に跋扈(ばっこ)したのが“真”かつ、業績ではなかろうか…。

(写真は桜町踏切を渡り切った塩尻側)
などと…、明治の想像に耽りながら(←前置き長い!でも細かい数字はともかく、そんな事を考えながらこの踏切を渡った)いい加減な写真を撮りつつも、たかだか2、3分で踏切を渡り、ふと辰野駅側の踏切防護柵(踏切注意柵)を見たら…。


!!!!!!!!!!!!!

何か置いてある!

【てか、これってテレビのリモコンじゃあ~ん!】

などと、浮かれて不用心にそれを手に取る程、私は甘い人間ではないさ。
何事にも周囲の監視を怠らない私は、既に重大な事実を知り得ていた…。
その“重大な事実”とは

「ここにはテレビがない」

という事だ。

つまりは、リモコンの赤外線照射部分を塩尻側に向けて置かれているこれは、正確に言えば「テレビのリモコン」ではなくて「テレビのリモコン状の“もの”」であり、ひょっとしたら鉄道施設における重要な装置、備品の可能性がある。
安易に触れて、例えば迂闊にも(テレビのリモコンにおける)“9”のボタンを押した結果、塩尻駅から特別9両編成の貨物列車が発車して、それが突如辰野駅に突入でもしかねないのだ。
万一そんな大事故を引き起こせば、私の人生などその代償たる刑期と弁償代でいとも簡単に吹き消されるだろう。くわばら…くわばら…。

触る事なく、恐る恐るリモコン風の謎の装置のボタンの表示を見たら『音量』だの『BS』だの、見るからに怪しいものばかりだった。
もしもボタン表示の中に『ATS-P(自動列車停止装置)』なる表示があったら、その場で失禁していたかも知れないが、幸いにもなかった。
ほんと、くわばら…くわばら…。

ちなみに、今年2013年の1月12日に再訪した所…。

無かった…。

参考:新潮社『鉄道旅行地図帳7号東海』編。

協力:磯部祥行さま。golgodenkaさま。へちまたろうさま。雲助2号さま。

おわり。
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  1. 2013/03/18(月) 02:50:00|
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