
朝方、シャツの着替え時、袖口のボタンを閉めている時に、ふとこんな言葉が頭に浮かんだ。
「ユンボ祭り」
口にこそしなかったが、なぜこんな言葉が浮かんだのか考えた。
「ユンボ≒マンボ」
確かに、ユンボに祭りの要素は少ないが、マンボとなると“祭りの要素”は高くなる(かの、美空ひばり唄「お祭りマンボ」もそうだ)
ちなみにWikiによれば
「マンボ(mambo)ラテン音楽の一つ。キューバの音楽形式でダンスのスタイル。mamboという言葉とはハイチの土着宗教ヴードゥーの女司祭の名前で「神との対話」の意味を持つ」
との事である。
で、ここで私の頭の中で直通したのが、かの有名漫画アニメの「キン肉マン」のED曲「キン肉マンボ」であった…(作詞:森雪之丞/作曲:森雪之丞/編曲:奥慶一/ 歌:神谷明/こおろぎ/SHINES)
であった…。
と、言う事は、逆転の発想で「キン肉ユンボ」は成立しないが、漫画アニメの「キン肉マン」を用いる事で「ユンボマン」が成立し、また小林旭の「自動車ショー歌」のように「ユンボマンボ」なる唄なり世界も有り得る。
ただしその新世界が“楽園”とは限らない。「無限の可能性」とは不可能、不安、否定をも含めての可能性なのだと思い、私はシャツの袖口のボタンを閉めて、どうでもいいような、つまらない買い物に出掛けた。
(写真は、無関係な背景です)
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- 2010/09/30(木) 00:43:03|
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長野県松本市大字今井
訪問日 某日
【地図】【大きい地図はこちら】道の駅「今井恵みの里」にて。

駐車場の白線内にいた君は一体誰なの?
(この数日後ぐらいに再び訪れたら、綺麗さっぱり消されたのか、または白線の上塗りなのかは知らないが、跡形もなく消えていた…)
おわり。
- 2010/09/24(金) 01:24:44|
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レポの書き出しが上手く出来ない…。↓

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- 2010/09/23(木) 00:49:46|
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長野県伊那市某所
訪問日 某日

そんな某所の「鹿公園」にて。

この看板。

右側。

左側…。
実に味わい深い…。以下は私の想像話し。
看板画の描き手(以下A)
A「よし出来た!」
それを横で見ていた人(以下B)
B「何これ?キリン?」
A「鹿だよ、しか!」
B「う~ん…、右の猿は分かるけれど、左のは鹿には見えないなぁ…」
A「じゃあこれでどうだ?」
B「紋様入れたら尚更分からないな~」
A「そうか。じゃあ…、角を付けて…、と。はい、しかさん完成!」
B「…、ん。まあそれで良いだろ。ちょっとオレ、急に用事を思い出したから、そんじゃあな」
おわり。
- 2010/09/20(月) 20:32:23|
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長野県伊那市長谷非持
訪問日 2019/9/16
【地図】【大きな地図はこちら】長野県伊那市にある美和ダム。
実は、と言うか、当然ながらと言うか、ここは色々な意味で“美味しいところ”なのだが、とにかく最初に目についたのがこの警告看板。

「キケンな姿勢」
分からなくもないし、少なくとも確かに危険な姿勢なのは間違いないのだが、看板にて表示された通りの姿勢を実際に出来るのは、オリンピックに出場するような体操選手しかいないと思うのだが…。
おわり。
- 2010/09/20(月) 04:05:44|
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長野県木曽郡木曽町三岳
小島隧道の旧廃道。
訪問日 2009/4/24

「横綱みまき培土」が待ち受けていた。
まあゴミがあると言う事は…。

終わりが見えた。

何だか名残惜しくて振り返る。

更に進むと、ここで何か建造物の基礎部分跡を発見した。
訪問時は何とも思わなかったが、今改めて思うとこの基礎部分跡は信号機、または交通誘導員の詰め所跡かも知れない…。と、言うか、そうであったらのならばいいなと思う。
これは前編でも述べたが、この旧道の現役時は軽車輌は勿論、トラックや下手をすれば御嶽山詣りの観光バスが通っていた可能性が多分にある。
戦前戦中のボンネットトラックやボンネットバスの中には全幅が2000mmを下回る車種(例えば戦前、日本初のバスである「スミダ・M型バス」の全幅は1830mm)があったから通れない事はない(ちなみに戦後のボンネットトラックやボンネットバスの全幅はモータリゼーション前夜祭でグイグイ2000mmを優に越えているから走行は無理だ)
それならば、こちら王滝村側(御嶽山側)と、今回の廃道探検の入口である木曽側の
【小島橋(仮)付近(撮影日2009 1.04)】にそれら施設があっても不思議ではない。と言うか、無ければ困る。
何しろこの道はカーブミラーがあれば大丈夫という範疇ではない(この当廃道区間を歩いた中で、カーブミラーや標識。またはそれらを支える支柱等の痕跡はなかった。無論崩落による消失や、廃道化工事の際に撤去されていればそれまでの事だが、大体そもそも「カーブミラー」がいつ頃から採用されたのか私には分からない)
往時、簡易的な遮断板や笛をくわえた誘導員がちょくちょく「ピィー!」と笛を鳴らして交通整理をしていたのならば、それはとても素敵な風景だと思う。

まあそんなこんなで…。

旧道区間は終わる。

小島隧道を王滝村側からの見た旧道との分岐。
【現在地】昭和32年開通の小島隧道の延長は140mである(写真では木曽側坑口が見えている。つまりはたった今、多少は緊張しながら歩いて来た旧廃道区間の行程は多く見積もってもせいぜい200mそこら…。まあ廃道歩きなんてそんなもんだ…苦笑)
では、この小島隧道の出現で当区間における交通事情の懸念事項は完全に解決したのかと言えば、残念ながらそうとは言えない。

なぜなら小島隧道のスペックは幅員5m。限界高4.8mだ
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- 2010/09/19(日) 02:43:00|
- ●廃道
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長野県木曽郡木曽町三岳
訪問日 2009/4/24
【現在地】
ウフフな景色はまだ続く。

まだまだ、このくらいの崩れは“おかず”どころか“おやつ”の範疇だ。
この道がまだ現役であった当時の有効幅員は2.5mは無いだろう…(崩れ具合にもよるが、狭い所は2m有るかどうかも怪しい。巻き尺持ってきて計れば良かった…)
多分この旧道は、出生時から昭和32年に小島隧道が出来た事で息絶える末期までずっと未舗装で過ごしたのだろうが、まあとにかく昔の人は逞しいと言うか度胸があると言うか…、よくもまあこんな道を使っていたな、と正直思う。
一体いつ頃に開墾開通したのかは分からないが、何にせよ昭和32年に小島隧道が開通するまでは確実に使われていた訳で、少なくともこの旧道の末期の時代は所謂「モータリゼーション」前夜の時期だ。
肩に鍬を担いだ人同士は勿論、自転車やバイク、または手押しのリアカー程度のものならば、この道の行程ド真ん中にてお互い対向車(者)として鉢合わせをしても、最低では会釈、最高でも「ちょいとごめんなさいよ」の一言で済むだろうが、四輪の自動車や当時でも既に全盛であったオート三輪同士での鉢合わせはなかなかの修羅場だったと思う(ちなみに「オート三輪」と聞くとつい「ダイハツミゼット」を始めとする軽車輌車種を想像してしまうが、ミゼット等各社オート三輪は戦後を過ぎたかなり後に(後述有)開発された比較的上等な車種で、実際の戦前戦中または戦後直近のオート三輪等は乱暴な形容だが、バイクの後ろに適当なリアカーの荷台を繋げたようなものだ)
これはだいぶ後日になって調べた事なのだが、この旧道にて何らかの車輌が走っていたであろう昭和32年以前、軽自動車規格が一番最初に決められた昭和24年制定「運輸省令第36号車両規則」では全幅が1000mm以下と規定されている。
参考までに「オート三輪」の代名詞である先述「ダイハツミゼット(偶然にも小島隧道開通と同じ昭和32年から販売開始)」の全幅は1200mm。また昔の軽四輪車で有名な「スバルR360(昭和33年から販売開始)」の全幅が1300mmだ。
無論、小島隧道開通以降に販売された彼ら有名スター軽車輌はこの道を走った事はないと思う……、けれど、当時における一世一代の買い物である大事なピカピカ新車ミゼットや360で、廃止間近故にまだ比較的往時の姿を保っていたこの道をわざわざ走った“馬鹿野郎”がいた事を切に願いたくなるのは自分だけか。
尚、この軽自動車規格(その変容)についてはとても面白いので、参考にしたこちらのサイト様リンクを貼っておく
【軽自動車検査協会】
振り返って撮影。
こんな道は“丁半博打”と変わらないじゃないか。
対向車との鉢合わせは勿論、暗い夜道や冬の凍結等、過酷な条件を言い出せば切りがない。
ただし、王滝川を挟んだこの道の対岸(王滝川右岸側)には、かの木曽森林鉄道の代表格である王滝線が大正末期から昭和後期まで走っていて旅客業務もしていたから、奥地である王滝村から木曽谷へ出る移動手段としての“道"としてみた場合、案外この小島隧道の旧道区間はさほど重要ではなかったのかも知れないのかな…。
いやいや、重要だったろう…。
実際調べたわけではないから断言は出来ないけど、どう見ても当時木曽谷~王滝村間(御嶽山参りの観光客も含む)における移動手段の利用人数者数だけで林鉄の王滝線か?それとも自動車か?と比較すれば、そりゃ大多数が林鉄派であり自動車派は少数であったろうが、しかし少数派であれ何であれ現にこの道を使っていた人(利用者)の心情にしてみれば、それは最重要問題の箇所であったであろうよ(こういった既存、または新規の主ルート改変における利用者数の比較や運用コストの比較。利便性の比較。そしてやってみなければ分からない“未来性"
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- 2010/09/17(金) 03:31:45|
- ●廃道
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長野県木曽郡木曽町三岳
訪問日 2009/4/24

小島隧道。
【地図】【大きい地図はこちら】上の写真は前回
【長野県道20号開田三岳福島線 旧小島橋(仮)】のもの。
次からの写真は雪解けが過ぎた、同年4月24日に再訪したものです。

小島隧道木曽側坑口の左にある、この胡散臭い道へ行くわけで…。ガサガサ…。

振り返ってみる。写真向こうに前編の「小島橋(仮)」がある。

再び前を見る。まだ4月だからそれほど激藪発達もしていない。良い感じだ!と…。ちょいと進んだら…。

フゴッ!
そうでもねえな…。

道半分(左谷、右山)の谷側がごっそり流れ落ちている。しかも残った山側にはデっかいお岩が鎮座しておるでよ。とにかく岩が邪魔…(写真ではそれほど危機的には見えないが、なかなかにデンジャラスな所だった)よっこらせ、と越える。

難場を抜けると…、おぉ!良いじゃん良いじゃん。なんか良いよ…。進む。

先ほどの難場に比べると足元は土から砂利主体に変わって路盤はしっかりしている。が、だからと言って浮かれ気分で両腰に手を当ててスキップする気にはならない。なぜならば…。
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- 2010/09/17(金) 00:18:10|
- ●廃道
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【日本の廃道】さま
【山さ行がねが】さま
【轍のあった道】さま
リンクさせていただきました。
- 2010/09/16(木) 18:38:46|
- ●交通遺跡調査室分室
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長野県木曽郡木曽町三岳
撮影日 2009/1/4
【地図】【大きい地図はこちら】
御嶽山詣りによく使われている「長野県道20号開田三岳福島線」にある小島隧道。

今回紹介するこの廃橋は、小島隧道のすぐ脇で、ひっそりと架かっている(残っている)
後述するが、本橋の正式名称は分からない(故に、記事のタイトルも「旧小島橋(仮)」となっている)のだが、恐らく、と、言うか、間違いなく、昭和32年に小島隧道が開通するまで使われていた旧道のものだ。
その旧道は木曽側から上の写真、小島隧道坑口前を、右から左に横切り、山を巻いて隧道の向こう側へと通っている。
ちなみに現道は築堤で、旧橋の下を流れる沢を暗渠であしらっているのだろう。
今回は小島隧道の方から橋を伺う。

距離は短いからすぐに橋へ辿り着いた。

沢の右岸、下流側の親柱(銘板が無い)
一方の上流側親柱は…。

銘板も何も
【親柱が完全破壊状態…】
とりあえず橋を渡り切ったら、その先は盛り土が成されていた(写真は盛り土の上から振り返って撮影)

また、その盛り土部分には“何か”の支柱が散乱している。

再び橋に戻って、沢の左岸側からの全景。
ムクムクと育つ大きな木に、この橋が廃止されてからの長い年月を感じる。ちなみに、こちら側の親柱や銘板はどちらも何とか残存していたが、銘板に刻まれた文字が旧字かつ達筆過ぎて読めなかった…。
(以下参考)
【左岸上流側の銘板】 【左岸下流側の銘板】 判読出来る方教えてクレヨ!

それにしても…、いいな…。この欄干。
追加

(同2009/4/24に撮影)

小島隧道入口よりちょいと木曽側。

盛り土をされた部分、旧道の入口を現道から撮影。
尚、本編においては
【長野県道20号開田三岳福島線 小島隧道の旧廃道」編】へと続きます。
と、言うわけで、とりあえずおわり。
- 2010/09/16(木) 01:17:10|
- ●橋梁
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長野県木曽郡木曽町新開
訪問日 2010/9/15
【地図】【大きい地図はこちら】
ここは今までも何度も通り、渡っていたのだが、橋梁に疎い私は、単なる「ポニートラス橋」だと思っていた。
まあ何とも“橋梁”に対する認識が、この時には余りにも浅はかだったし、そもそも、この道が国道361号の旧道なのだ、と知ったのは、ずっと後の事である(記載した地図でも分かるように、現在では“土木の力!見たものか!”と、高規格な「木曽大橋」にてあっさりと国道361号は木曽川を渡って岐阜側へとバイパス化している)
それはまあとにかく。

黒川渡橋。

設置案内板より。
『『吉蘇志略』(きそしりゃく宝暦七年(1757)上田村の項に「黒川渡橋ー大川(木曽川)の西岸にあり、すなわち福島通路なり、官舎(黒川渡番所)有り監護す」とある。飛騨へ通ずる道として現在地より低いダムの中に架けられていた。昭和9年~12年のダム工事にて現在の位置にかさ上げされて出来たのが木製トラス橋となる。現在の橋は昭和28年に架けられた「下路ポニーボーストリングトラス」橋で、鋼材が貴重であった当時の工夫が随所に見ることができる。この工法で現存するものは県下で唯一といわれている。』
なるほどな…。これは只者ならぬ橋だったのか…。
最近は色々な方々の影響を受けた結果、ズボラな私でも少なくとも“橋梁の事を知ろう”という気持ちはあるので「ボーストリングトラス橋」が、そうゴロゴロあるものではない事ぐらいは分かって来たのだが、県下唯一とは恐れ入った。

おわり。
- 2010/09/15(水) 03:31:08|
- ●橋梁
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リトルグレイ…(石持ち地抜き三つ銀杏)

ついでに斜光器土偶も…(対い銀杏菱)
- 2010/09/15(水) 01:44:36|
- ●ボソッ
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長野県伊那市長谷非持
訪問日 某日
【地図】【大きい地図はこちら】実はこれを発見したのは去年の夏の事だったのだが…。

「学校ありスピードおとせ。」
まあ、よくありがちなPTAの交通安全看板でなのだが…、既に去年、初めて見た時からして、この看板からは“ただらぬオーラ”が(動態視力的に)出ていた。と、言う訳で今回はわざわざその“オーラの正体”を確認すべく、私は車を停めて撮影したのだ。
そんで見てみれば…。
あの国民的漫画の「の〇太」と「しず〇ちゃん」なのであろうし、この絵の出来云々とかはどうでも良い。
問題(放っている“オーラ”の正体)は、二人のこの手だった。

何なんだ!この“ふやけた”シワシワの指は!
この手の指は職人。そう「鍛冶屋」さんの手ではないか!
追記 時は流れて今年(2010年の6月)たまたま、付近を通った時だったのだが、この看板は撤去されて無くなっていた。
私としては「あれ?無くなったの?」程度の認識で、車を停める事もしなかった。のだが…、今月(2010年9月)に、再び付近を通ったら、看板は復活していた!

色鮮やかにリメイク!

しかも鍛冶屋の仕事も辞めていた!
おわり。
- 2010/09/15(水) 00:44:38|
- ●なんだこりゃ?
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「廃道・廃線・廃隧道・趣味者」の室長こと私、tyafficの乱心により、とうとう交通遺跡調査室を立ち上げてしまいました。
しばらくの間、当ブログ(分室)にて、生温い調査、稚拙な文章、ショボい写真、オチのない話しを展開する事になりますが、本室確保に向けてそこそこの努力をしてまいりますので、冷ややかでも構いません。どうか石を投げずに見守ってくださいませ。
(写真は旧国鉄中央西線。旧権現隧道)
おわり。そして始まり。
- 2010/09/14(火) 17:50:10|
- ●交通遺跡調査室分室
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