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森林鉄道の廃止年問題。

恐怖!森林鉄道の奥深さ!これは永遠のテーマか!?


各林鉄路線における廃止年の特定は実に、むむ!難しい!
これは、当ブログ「こちら交通遺跡調査室」のリニューアル(悪あがき)をするにあたって、自分自身が過去に書いた記事を読み直していて、ふと、どころか“つくづく思い知った。いや、思い知っていた”事だ。

当ブログを書き綴り始めるちょっと前、まだ廃探索では駆け出し状態、青二才の頃であった当時(いや、現在でもそうだが…)知識は素人同然の私が「森林鉄道」なるものに喜々として初めて足を踏み込んだ時に、一番最初に躓いたのがこれであった。

「……(←思考中)え、え?うわ!これはややこしいなぁ…」

が、ファーストインパクトであったのを今でも鮮明に覚えている。

よく考えるよりも前、ちょっと考えただけでもすぐに分かる「林鉄調査における大問題」の壁。それは廃止年の特定だ。

確かに、材木等の“資源”を採れるだけ採って運んだら「はい、ここはこれでおしまい!レールを片付けろ!次はあっちだ!」の連続で、端から永久など一切約束されていない“使い捨て”を前提として臨時的に敷設された(早くて数ヶ月。長くて何十年程度で必ず廃止が約束されているのが森林鉄道の宿命だ(またその点からすれば長野県木曽の「王滝森林鉄道」は長寿命かつ、まさに「最後の森林鉄道」を冠するに値する存在だと言える【関連記事】

何とも森林鉄道の扱いは実に難しく悩ましいのを思い知った…。

いや、開通年の特定については実は割と分かりやすい(無論、何月何日の開通か?までの特定は難しいが…)
何故ならば、例えばその路線開通時に架けた橋梁が鋼鉄製であれば、そこに大体取り付けられている製造銘板を見れば大体が分かるし、または地元図書館へ行き、郷土史等を読めばこれまた大体が分かる。が、とは言え、これにも“罠”があって、実は鋼鉄製橋梁がとうの昔に製造されたもので、元々は全く別の場所に架設されいたものの転用・使い回しであったり、話しはちょいと逸れるが、そもそもその路線全体における架設橋梁が全て木造製木橋オンリーで展開されていた事で、製造銘板はおろか(木橋には製造銘板はついていない)廃止から月日が経った現在では、崩壊に崩壊を重ねてその痕跡すらも見当たらない等々色々ある。
大体「郷土史等を読めばこれまた大体が分かる」というのは、当時往時の全国各地、国営国有林を管轄していた各営林局営林署が把握していた資料を基にデータ化された『国有林森林鉄道全データ』であり、私営の林鉄データの資料は全くと言って良いぐらい残存していない。

これが、かつて日本全国各地にて走り、今では眠っている森林鉄道の現状だ(ダム建設にて沈んだ路線も多数あるのは周知であり、これもまた難しい問題でもある。←ダイバー免許を取得してダム湖に潜らない限り、水没部分にあるかつての路線跡は見られないし、そもそもそんな正直(←頭に“馬鹿”が付く)な手続きを経て潜ったところで、ダム湖に沈んだ林鉄路線跡などは、長年堆積した土砂によってダムの底よりも何十メートルも下に埋まっている…)

話しを戻すが、森林鉄道の調査はそれだけ兎に角難しい。
その廃止年が微妙に判然としないのは、果たしてそれが林鉄本線の廃止決定年なのか、または廃止作業が始まった年なのか、あるいは廃止作業完了年なのか?
その辺りで、どこか“ボンヤリ”しているのだと思う…(大体、林鉄路線を「もう廃止する!」と、指を鳴らした所で、すぐさま全てが消える訳ではない。敷かれていたレールの撤去回収作業や、林鉄車輌の上げ下ろし作業を考えれば、ものの一ヶ月二ヶ月そこいらで終わるものではないだろうし…)

ここで頼りになるのが地元の古老の存在である(現に私は、とある林鉄路線の定説とされていた廃止年を、数年上回る正確な廃止年を知り得る事が出来たし、または別地においては、一切ネット情報にはあがっていない路線(支線)跡の存在も知り得る事も出来ている)
林鉄調査における地元古老の存在や証言は大変貴重なのは間違いない。のだが、これまた“絶対”とは言い切れない。
こう言っては古老の皆様には悪いのだが、御本人の“思い込み”による間違った証言や誤情報がかなりあるからだ。
勿論、わざわざ私如き輩の問い掛けに対して、奇特にも答えてくれた古老が悪い訳ではない。
その証言を鵜呑みにするか、しないか、の私自身の問題だ(←これについては、複数人の地元古老達から聞き取り調査を行うのと同時に、古老御大から更に「事情に詳しいお知り合いをご存知ではないか?」と、更にご教示を願う事で大体解決が出来ている)

と、まあ…、森林鉄道の調査。そしてその完全把握なるものは、実に途方もない、まさに底無しの深淵に足を踏み入れるが如き“難行苦行”だと思う…。

昔、私が中学生の頃だったか、何かの雑誌にて「途方もない作業」の例えとして「琵琶湖をスコップ1本で埋めるのと同じ」という言葉があったのを覚えているが、まさにそれだ(まあ林鉄調査や廃止年の特定は、その例えとは真逆で“掘り起こしの作業”なのだが、途方もない事の例えとしてはピッタリだと思う…)

さてさて、ここまで当記事をお読みいただけている読者さまから

で、だからそれが何なんだ?

と、問われれば私としてはいやはや何とも答えられる言葉が見つからないのだが、それでも何とか見つけて言えるのは、それでも私は森林鉄道の跡を捜すのが好きだ!と、いう事ぐらいか…。

まあそれで良い。困るのも苦労するのも私自身だけなのだから。

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おわり。
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  1. 2016/11/15(火) 19:35:00|
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戦慄! 中央線辰野支線の踏切にある謎のリモコン!

長野県上伊那郡辰野町

訪問日 2012/10/15

【地図】

【大きい地図はこちら】


ここは、中央本線辰野支線の桜町踏切。

中央本線“大八廻り”辰野駅から塩尻駅へ向かう路線の中で、一番最初にある人道踏切である。

踏切のド真ん中から、まずは辰野駅側。駅が近いだけあって広いな。

さて、先述の「大八廻り」なる言葉。
鉄道をちょっとでもかじっている人ならば誰しもがご存知な言葉であろうが、だからと言って「分からない人は自分で調べろ」みたいにスルーするのはちょっと乱暴な気がするので、敢えて簡単に説明する。

(こちらは同地点から塩尻駅方向を撮影)
現在、中央本線岡谷駅~塩尻駅間は昭和58年に開通した複線断面の総延長5994mの長大新線トンネル『塩嶺トンネル』が、塩尻峠に風穴を開けて(みどり湖駅経由で)直通しているが、そもそも中央本線東京駅~名古屋駅が開通したのは明治44年(岡谷駅~塩尻駅間が開通したのは明治39年)の事である。
明治の当時、岡谷と塩尻の間に立ちはだかる屏風のような塩尻峠を貫通させる隧道(トンネル)掘削技術はまさに“神の領域”であり、例えば同じ中央本線でも明治36年に竣工した総延長4656mの『笹子隧道』でさえ工事に難儀を究めた。
中央本線計画当初には塩尻峠を貫く隧道案があったみたいだが、どう見てもまだ乏しい明治期の隧道掘削技術の問題や、仮にまぐれで隧道が開通したとしても、電化が成されていない蒸気機関車が吐き出す煤煙の問題(長大隧道では排煙装置を設けないと運転士が窒息死する時代)で、運用は出来なかっただろう。
という訳で、中央本線は“巨大屏風”たる塩尻峠を避け、岡谷駅から一旦南下して辰野駅を経てから再び北上して塩尻駅(途中駅は信濃川島駅と小野駅)へと至る、総延長距離約28kmの迂回ルートを選んだ。
この、出来るかどうかも分からない約6000mに及ぶ夢の隧道を掘るよりも、地形(地質)的に現実的な28km(28000m)の迂回ルートを選ぶあたりが、いかにも明治感がして自分は好きなのだが、迂回そのものについての判断は、そりゃそうだろうと素直に思う。

では、そんな迂回ルートである「大八廻り」の名前の由来なのだが、明治の中央本線建設計画時に中央アルプスを挟んだ木曽谷ルートか伊那谷ルートかで、それぞれ地元からの猛烈な誘致運動があったが(これは最近のリニア新幹線の誘致と同じものだ)結果、中央本線は木曽谷ルートが選ばれた。

Wikipediaにおける「中央本線大八廻り」や、その中における「伊藤大八」またはその他ネットの情報によれば、明治の当時、鉄道局長を務めていた長野県下伊那郡上殿岡村(現在の飯田市上殿岡)出身の帝国議会衆議院議員の伊藤大八(安政4年~昭和2年)が、せめて伊那谷の一部にだけでも中央本線を誘致すべく奔走し、当時の国会の鉄道会議で争われていた先述の塩尻峠を貫く「塩嶺隧道(トンネル)」か、迂回する「辰野廻り」の二案うち、現地調査に立ち合った大八は、議案書に“独断”で「辰野経由」の文字を記した事で上伊那辰野への誘致に成功し、以来地元では大八の功績として同線を「大八廻り」と呼ぶ。と、されているが…。

これについては重ねて先に述べた通り、塩尻峠を貫く隧道建設(運用)の問題で、なにも伊藤大八が奔走し、更に議案書に独断カキコをしなくとも結局は辰野廻りの遠回りになっていたのではなかろうか?
まあこれについては、当時の生の声を知らないばかりか、特段「伊藤大八」について図書館に籠もって何らかの資料を調べた事など毛頭無い自分がどうこう言う事ではないが、伊藤大八の真の業績とは、中央本線の伊那谷誘致こそ夢に消えたが、すぐさま伊那谷ルートの別路線で、中央本線に代わる現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線を結果として通した(豊橋~辰野間は大八没後の昭和11年に全面開通した)事ではないのかな…、と自分は勝手(あくまでも勝手よ)に思っている。

今では「飯田線」の一言で終わる当該路線だが、明治から昭和初期にかけては「豊川鉄道」「鳳来寺鉄道」「三信鉄道」「伊那電気軌道(鉄道)」という、それぞれの私営鉄道会社が順々に建設し、また出来た路線から順々に運行をしていた(昭和18年に国有化された事で「国鉄飯田線」となり、各社は解散となった) 続きを読む
  1. 2013/03/18(月) 02:50:00|
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野尻森林鉄道 野尻向鉄橋(木曽川橋梁)

長野県木曽郡大桑村大字野尻

訪問日 2009/1/31

【地図】

【大きい地図はこちら】

総称「木曽森林鉄道」と呼ばれる木曽谷の林鉄網の中のひとつに「野尻森林鉄道」がある。
旧国鉄中央西線、野尻駅を起点として、そこからあらゆる幽谷へと網を広げていた。
当路線の開通年は大正12年で、廃止は昭和40年ぐらいの頃だとされる(未確認)

また、当路線については、まこと有り難く、尊敬するべき「木曽林鉄攻撃隊(先人たち)」のレポがいくつもあって、私もネットで見て知った瞬間から「この鉄橋だけは絶対に見てみたい!」と、ずっと思い、そしてついに2009年の1月31日。本懐を遂げる事が出来た。

写真右側に(かろうじて)見える村道を外れて、この実に味のある農道へ入る。カーブの具合からして廃線跡の香ばしい匂いが漂う。

ちなみに、この写真を撮っている私の背後方向が、野尻林鉄の起点である野尻駅方面だ。更に進む…。

“何か”がある…、と言うよりも“あいつ”が待ち受けている!
散々、直接、我が眼で見たかった“あいつ”が!

ぐぅ!
脇へ廻る…。

でたーーっ!うっきょーー!

で、さっき最初に突き当たったこれ。

この橋台の裏側だったのだ。

この最高の“お立ち台”によじ登りたい気持ちも正直あったのだが、それはやめておいた。
理由としては、大体からして「橋台の裏側なるものが露出している姿」は、本来有り得ない状態であり、それを無理矢理よじ登ったが結果、積まれた橋台部分の石や、未だに残る(本橋架設当時は従事者が一所懸命に、突き堅めたであろう)土を削り落とす行為は、私としてはやりたくなかった。

尚、上の写真の通り、橋台の下は「そのまま木曽川へ逝っちゃいな!」的な“無慈悲”な仕様ではなくて、きちんと通れる(潜れる)事が出来る…、が、それはそれとして…。

今まで歩いて来た農道は、かつてはもっと高い築堤が続いていた筈なのだが、つまりは、橋梁における肝心要の橋台部分の裏側が露出していると言う事は、そこへ行く築堤は削られてしまったという事になる。

一径間目。ごっついワーレントラス。その向こう(木曽川下流)には、車道橋の「野尻向橋」が見える(後で出る当橋の「遠景写真」は、この車道橋から撮影した)

さて【歴史的鋼橋集覧】を参考にしながら、この鉄橋のスペックを紐解いて行きたい。

木曽川を跨ぐこの鉄橋は、大正10年に「日本橋梁株式会社」による製作拵えで、正式名は当記事のタイトルにもある「木曽川橋梁」だ。

と、ここで調べていて分かったのだが「日本橋梁株式会社」の創立は大正8年(1919年)である。
と、なると、この「日本橋梁」よりも“一足”早く、明治40年(1907年)に創業創立した橋梁会社の名門である「横河橋梁製作所」(現「横河ブリッジホールディングス」)を差し置いて…、というか、そもそも、いつの時代においても“12年”なる年月は“一足”どころでは済まないと私は思う…(特に“その時代”における“最先端技術が必要とされる事業”においては、それが顕著ではなかろうか。例えば、昔は鉄橋の架設。現在ではIT技術とその開発だとか)

そんな中「日本橋梁」は、これだけの規模の橋梁の製作を任されたのだから、当時の「日本橋梁」社内における、この「木曽川橋梁」製作に対する意気込みは、かなりのものであっただろうと思うし、またそれを想像するのも難しくはない。
まあ、あの時代に(言い出せば今現在でも“それ関係”でニュースになる事が多々あるのだが…)「厳格なる競争入札制度」があったのかどうかは知らない。が、少なくとも架設どころか廃止を経てから半世紀。いわば“放置状態”でありながらも、この「木曽川橋梁」がこうして現に建ち続けている事実からして、当時の「日本橋梁」が“良い仕事”をしたのは間違いないと言えるだろう。

(以下追記)
尚、ついでに言えば「日本橋梁」「横河橋梁」と来れば。もう一つの橋梁製作会社の名前を頭に思い浮かべる方もおられると思う。
「横河」「日本橋梁」と来れば、橋梁“三羽烏”のもう一つ。しかも何故だか、その会社が製作した橋梁は、見た目格好だけで「この橋の造りは“さくらだ”だな…」と分かってしまう(※私個人の感想です)橋梁製作会社「櫻田機械工業株式会社」(大正9年創立。最終時は「株式会社サクラダ」)が、近年どころか、昨日か一昨日とも思える、2012年(平成24年)にて、破産していたのには驚いた。
(2016/8/16 加筆)


こちら木曽川左岸側から順番に橋の構造を見てみよう。

と、言う訳で、先程述べた車道橋の「野尻向橋」から撮影した遠景写真を用意した。

木曽川左岸(遠景写真での右側)から順に、上路ワーレントラス(長さ24.4m)次に大迫力の、下路曲弦プラットトラス(長さ61.0m)次に、上路プレートガーダー(長さ15.9m)そしてまた、上路プレートガーダー(長さ15.2m)で、最後も上路プレートガーダー(長さ15.2m)の、計五径間、全長134.6mの長さで対岸の木曽川右岸側へ渡っている。

再び遠景写真。
当橋を渡った木曽川右岸側(写真の左側)には「野尻向停車場」があり、そこを起点にして「殿線」が、写真の奥方向(木曽川右岸上流方向)に分岐していた。
また本線「野尻森林鉄道」は、写真手前方向へと行く。 続きを読む
  1. 2011/05/02(月) 04:00:00|
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黒河内森林鉄道 後編

長野県伊那市長谷黒河内

訪問日 2009/5/18



【現在地】

かつては林鉄車輌を通し、現在は自動車を通す「鷹岩隧道」に今、初夏の夕陽の明かりが通る。

さて、この「鷹岩隧道」の竣工年がいつなのか?
さっぱり分からない。と、言うか、そもそもこの「黒河内森林鉄道」の竣工年やら廃止年が全く分からない。
後日、現地にて、地元古老に聞き取り調査をしたのだが、それを語る証言者が述べる廃止年は「昭和32年だ!」とも「水害があった昭和36年じゃねえかい?」とも「確か昭和39年だったと思う…」と、それぞれバラバラだった(私が思っていた廃止年は「水害があった昭和36年」だと思っていた。)

だから「分からなかったのだ!」と、言えば、これはさぞ難しい物件なのだと思われるかも知れないが、そんな程度の事は図書館へ行き村史や町史を読めば一発で解決するだろう。
これは単に、図書館やそもそも本、書籍を読む事が苦手である、私の単なる怠慢だ…。

現地(2009/5/18)では、そんな事は全く考えずに前へ進んだ。

先程の「鷹岩隧道」から2、300m程進むと、また橋が現れた。

カーブしている以外は「鷹岩橋(仮)」と同じ構造だ。

脇にある看板の内容は鷹岩橋と同じ。
てか“老朽化”って言葉に萌えない?……萌えないか…。

さっきは隧道ばかりに気を取られて、あまり橋の写真を撮らなかった。が、今回は充分撮った!
橋梁ファンの方々は存分に見てくれ!

脇から撮影。

橋上。

ちなみに、私が壊したのではありません。

分かる人にはこのレールの断面寸法でレールの規格が分かるのだろうが、私にはさっぱり何が何だか…。
「分かるぞ!」と、いう方々は、是非とも【こちら比較写真へ!】


更に橋の下を覗き込むと、ついさっきまで頭の上を流れていた用水路が橋の下を流れてる。騙し絵を見ているみたいで面白い。

欄干部分。

近影。

橋を渡り切ってから振り返って撮影。これで満足してくれたかい?
そうかい。ああ、良かった…。

おわり。

…、な訳がない!
どうか石だけは投げつけないでくれ!補足があるのだ。

これが実に悔しいのだが…。

当記事を書いていて、いつ話せば良いのか分からずに、ついぞここまでズルズルと告白するのを伸ばして来たのだが、私はこの日を含めた(2009/5/11 5/18)伊那市営の「シャトルバスの発着所」の待合室には一度も入らずに(入るチャンスと言えば、行きと帰りで少なくとも2回はあったにも関わらず)この後の探索を終えた後も、素通りで帰宅してしまった…。

だから、以下述べるのは、全くのいつ何年、何月何日だったのかはすっかり忘れてしまった、所謂“後日談”である。だから簡潔に述べたい。

例の「伊那市営シャトルバスの発着所」の待合室には「南アルプスの山々」や「そこに咲く花」等々、色々な写真が展示されているのだが、そんな写真の中にて、この「黒河内森林鉄道」の往時の頃のモノクロ写真が数枚展示されている。
そしてその中には「鷹岩の隧道」と題する“木橋時代”の「鷹岩橋(仮)」もあった。

前編での大失敗探索から始まり「自主制作ビデオ」放送を観てから、更に更に記事を書いている今…。前回の中編でも述べたのだが、どうやら私はこの「黒河内森林鉄道」からは、本当に嫌われているみたいだ。
そもそも、我ながら当記事の前編で記した訪問日が「2009/1/29 5/11 5/18 2011/2/21 2/23」と、一体一件の探索に、どんだけの年月と日々と時間をかけているんだよ?と思ったのだが、それは私自身の単なる怠慢が引き起こした結果なのだろうよ…(少なくとも、私はそう自覚している)

さて、あれから2年近く経った。気になった事がある。
それはとても素朴な事だ。

あの橋から先はどうなっているのだろう…。軌道跡はどこに向かっているんだろう…。

である。

そんな訳で、2011年の2月21日と23日に再び行ってみた(以下、写真は2011/2/21 と 2/23 に撮影したゴチャ混ぜです…。もはや苦笑するしかない)

戸台大橋。

【地図】

【大きい地図はこちら】

前回訪れた時の【あの廃レール橋】から約1km程小黒川を遡行すると、この戸台大橋がある。ちなみにここまでの道中風景は相変わらずの左は山(崖)右は小黒川で、途中30~40匹ぐらいの猿大軍団と出くわした事以外は、特段変わった風景はない(故に写真も撮らなかった)
ゲートで閉められているこの橋を行くのが「南アルプス林道」(至 北沢峠:「山梨県道37号南アルプス公園線」)で、写真には写ってはいないが、この写真左側に分岐する道が「黒河内林道」となる。

黒河内林道から振り返って戸台大橋を撮影。

黒河内林道。 続きを読む
  1. 2011/03/05(土) 01:56:00|
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黒河内森林鉄道 中編

長野県伊那市長谷黒河内

訪問日 2009 5.11


前編での「仙流荘」の写真(この写真は、2011年2月9日に慌てて撮影したもの。実際現地での私は、2009年5月11日の真っ昼間に立っています)

そうか…。ここが、かつての貯木場跡だったのか…。

私はこの日(しつこいが、2009年5月11日の真っ昼間にて)この「仙流荘」の裏の方、山側を、周囲からは怪しまれない程度に踏み入って見てみたのだが、そこには古い丸石の石垣が積まれていた。
その石垣を見ただけで「林鉄貯木場跡なのだろうよ…」という説得力は充分に伝わってきた。

ちなみに(これまた、しつこいが、慌てて再撮影をした2011年2月9日の「仙流荘」夕景)この写真。林道の先に、ちょっと明るい光が見えているのがお分かりだろうか。
あれは、伊那市営のシャトルバスの発着所に設置されている自販機の灯りである。

(2009年5月11日撮影)そのシャトルバス発着所を背後にして撮影。
いよいよ、この先が本格的な軌道跡なのか?

尚、この先に続く「南アルプス林道」は「戸台大橋ゲート」【地図】にて、マイカー規制(バイク、自転車も含む)が行われていて、一般車両はそこで通行止めである。
また、その戸台大橋付近には、入山をする(マイカーで来た)登山客を許容出来るだけの駐車場がないので、実態としては、南アルプス登山へマイカーで来た登山客は、仙流荘近くにある駐車場にて車を停めてから、後は「仙流荘」近くの、例のバスターミナルから定時出発往復するシャトルバスを利用しているのが大半だ。

また逆を言えば、戸台大橋ゲートまではマイカーで行けるし、先程記した「戸台大橋」の地図を見ればお分かりだろうが、そこから左に分岐して「入笠牧場」【地図】へ至る「黒河内林道」も通る事は可能なのだ(現に「黒河内林道」でネット検索をすると、オフロードバイク系のサイトにおいて同林道が結構の数ヒットする)

ちなみに、戸台大橋ゲートでの一般車輌通行止めを案内する看板が上の写真、右側に有るのだが…。私は“とある圧力”を感じた結果、早とちりをしてしまい、既にここからがマイカー規制路線だと勘違いをしてしまった。

だってさ…。


写真に写っている白いライトバンに乗っていた作業服姿のおっちゃんが、俺をガン見するんだもん…。

只今の私は車(マイカー)などは、とっくの前の「仙流荘」前の駐車場に停めてから、徒手空拳の徒歩移動である。
それにも関わらず、ライトバンの車内からいちいち私の挙動に目を凝らす「おっちゃん視線」が余りにも痛かったので、私は程々で引き返した。が…、写真左にもある石垣を見て思った。

やっぱりこれは軌道跡だな…。

さて、これからどうするか?…も、何もない。引き返すしかない…。


引き返した挙げ句のシャトルバス発着所。

規制はあくまでも車両が対象なのに、徒歩の私を、何故に監視員のおっちゃんはあんなに睨みつけるんだ…。何にもワルい事はしていないのに…。
と、不満に思いながら、私は自宅へと帰投した。そしてこれが、2009年5月11日の探索の実態である。
どうにもこうにも、この「黒河内森林鉄道」には悔しい思いしかないのは一体どういう事か。未練が残る…、どころでは済まない。

ここで、当記事(中編)をお読みいただいている方々に問いたい。

「これで納得出来ますかね!?」

出来る訳がない。少なくとも私は納得など出来ない!“執念”が生まれたのはこの時である。
一体どこの何の、誰に対しての“何なのか”は分からないけれど、とにかく「ざまぁみろ!」と言いたかったのだ。

それ故、この一週間後の5月18日に再び同地へと訪れた。いや、行ってやった!のだが…、いざ訪れてみたら、何て事はない…。
先週のオヤジ&ライトバン(略して“オヤジバン”)もいなければ、この先の林道でも、いかにもレジャー感たっぷりのファミリーカーが自由に行き来している…。改めて案内看板を見れば、先述した通り「戸台大橋ゲートにて一般車両通行止め」となっている。

「一体、あの“オヤジバン”は何だったんだよ…」

と、言うか、どうやら私はこの「黒河内森林鉄道」から嫌われているようだ…(写真の紛失やら勘違いやらが多過ぎる)と、正直この時思った…。

でも、まあいい。何にしろ今は邪魔をする者はいないんだから!

と、言う事で、この5月18日。私はやっと「黒河内森林鉄道」への本格的な進入が叶ったのだ(以下からの写真は2009年5月18日の撮影となります)

あの“オヤジバン”(私の生まれ年代がバレそうなので、あまり言いたくはないが「宇宙刑事」シリーズと、ついつい言いたくなる)が鎮座していた所を、ちょっと過ぎたらこれだ。
間違いない。軌道跡だよ。これ。まあ、何がどうしてって根拠はないけれどさ。

更に約1.3Km程進んだら…、ほら出た!
廃レールを再利用した落石防護柵。
こういうのを捜していたんだよ


ところで、この箇所に限らず、こちら界隈は崩れた岩の色がやけに青い…。「中央構造線」やら「蛇紋岩」やら、その道にお詳しい方々からすれば、何て事はない分野の話なのだろうが、それに疎い私は、これら「青い景色」を眺める度に「あ~、南アルプスに近いな~」とだけしか思えない程度だ。
更に進む。

うお~!良い眺め!

てか。【なんかあるし!】

進む!


車道(林道)に転用された軌道跡の風景。

その特徴の一つとして「変わり映えしない風景」と言うのがある。
鉄道軌道由来の道は、勾配が穏やかで、苦しいカーブがない。その為、どこを撮影しても同じ場所、同じような風景に見えてしまう。

ここで、もう一度言う。
オレは、こういうのをやりたかったんだよ!


尚、左の石垣から“コポコポ”と音が聞こえて、私は一瞬戸惑ったのだが、石垣の上端はどうやら水路のようだ。

それにしても、ここは気分爽快だ。小黒川の流れる音も実に心地良い…。そして。

きたっ!

きたよ!隧道がっ!


【現在地】

「鷹岩隧道」(正確には「鷹岩井隧道」という名かも知れない) 続きを読む
  1. 2011/03/04(金) 18:00:00|
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