廃道・廃線・廃隧道・あらゆる交通遺跡を調査‐こちら交通遺跡調査室(分室・携帯版)

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御嶽神社 里宮の道

長野県木曽郡木曽町三岳

訪問日 2009/11/23


御嶽神社里宮(写真は2010年1月4日に再訪問した時に撮影)

【地図】

【大きい地図はこちら】


古くから御嶽講信仰の対象として崇められている木曽御嶽山。
この御嶽山信仰、または御嶽神社の歴史的背景については、今回はバッサリと割愛する(手を抜くとも言う)が、ただ、いらぬ混乱が無きよう、ひとつだけ記述をさせていただくと「御嶽神社里宮」は2つ存在する。
1つは今回紹介する、長野県木曽郡木曽町三岳にある御嶽神社里宮で、これは「黒沢口里宮」だ。
そしてもう1つの御嶽神社里宮は、隣村の木曽郡王滝村に所在していて、同社は「王滝口里宮」であるので御注意をしていただきたい。

<a href="http://maps.loco.mobile.yahoo.co.jp/p/map/maps?z=16&lat=35.81494407&lon=137.55254399&title=&dc=1&mode=地図=">【参考地図】

【詳しい事を知りたい方はこちらさまへどうぞ】


の、のの、登った…。
まあ、言葉にすればそんなもんだ。が…、正直キツかった…、ほんと。
日頃運動不足の私にはとにかく足にキタ。
でも、そんなものは休憩しながら登れば済む事だ。
一番キタのは、急傾斜な階段を登るが故の“高さ”だった…。
階段一段一段の幅が狭く、靴の踵がはみ出る狭さ(ちなみに、私の足のサイズは26.5cm)
高い所はイヤなんだよぁ…。
階段を上り始めてすぐに「この登り調子だと、登り切ったら相当高いとこになるだろうな…」と思い、覚悟をしてからは、階段脇の手摺を握りながら上った。
「下だけは見まい」とも思った。

そして、ちょうど階段の中間地点まで来た時だ。
変な欲に負けて下を見てしまった。

た、高けぇ…。ガクガク…。てか何だ、この急な階段…(汗)

ブルブル…。

以降、手摺を握力で握り潰すぐらいの力を込めて上った…。
そんな途中、階段のド真ん中(手摺無し)を、ひょいひょい、テクテクと下りていく爺さんとすれ違いながら…(爺さんスゲエな!万が一にも躓いて前のめりに転んだら…)

まあそれでも何とか私は上った。
と、言うよりも、引き返す事が出来ずに(降りると下を見るから…)ひたすら上ってしまった結果がこれだ…。
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  1. 2011/02/06(日) 01:11:00|
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国道20号 塩尻峠 後編

長野県岡谷市今井

訪問日 2009/9/27

幻影灯の残像。


私が4、5歳の頃の話しだ(前編にて述べた「塩嶺会館」の入館料云々よりも数年前の話し)

当時、今は亡き我が父が料理人として「展望台レストラン」に勤めていた。
そんなある日、父が私を車に乗せて、この峠へと向かった。

峠は大勢の観光客で賑わっていた。
国道(この旧廃道)の両脇は、路上駐車をしている車が数珠繋ぎで停まっていた。
【公園駐車場】付近は、車がビッシリ、ギチギチ駐車状態で停められる隙間もない。

「停めらんねえなぁ…」

父は“隙間”を探すべく、あちらこちらへと車を走らせた。

「ここも停めらんねえなぁ…。あそこも駄目だろうなぁ…」

あっちこっち、その度に車のハンドルをグルグル回していた。
結局、この国道(旧廃道)の両脇にて路上駐車をしている車の群れの隙間を見つけ、そこへ車を停めた。

当たり前のように話しているが、そんな事は現在は勿論、当時でも許されるものではない。交通量が多い、天下の国道の峠のピーク。ましてや見通しが悪い線形のカーブの両脇が、路上駐車をしている車で数珠繋ぎ状態!など、もはや“異常事態”である。当然だが、確たる「道路交通法規」は、あの頃(昭和50年代前半)でも間違いなくあった。の、だが、当時、それを実際に取り締まる者もいなければ、たしなめる者もいなかった。むしろ、それを歓迎していた節さえもある。つまりは所謂、良くも悪くも「そういう時代」だったのだ…。

車を降りると、即座に「ワイワイ!ガヤガヤ!」という表現がピッタリと合う喧騒に囲まれた。
「塩嶺会館」の辺りには、焼き甘栗や、焼きモロコシ、焼きイカの等々の出店が並び、またその出店に並ぶ観光客らは、まるで一粒の砂糖に群がる蟻子たちのようであった…。

一体どこから来た観光客なのか。地元の人なのか、それとも他県から来た人なのかは分からない。分かりようがない。

若いカップルやら、家族連れやらと様々だったが、私自身が生まれて初めて経験したのは「人とすれ違う事がこんなに難しい事なのか!」という“人混み雑踏の混雑”だった。

私は、はぐれないように必死に父の後を歩いた。
ふと、私の目の前を、自分と同じぐらいの年頃の子供を肩車しながら歩く、どこかしらのお父さんが横切った。

私は父に肩車をされた事がない。
とても羨ましく見えた…。が、父に肩車をせがむどころではない混雑だ。
とにかく前を歩く父の後を早足で追った。 続きを読む
  1. 2010/10/30(土) 02:10:58|
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国道20号 塩尻峠 前編

長野県岡谷市今井

訪問日 2009/9/27

思い出の峠。

【地図】


【大きい地図はこちら】



長野県岡谷市と隣接する塩尻市の境にある中央分水嶺、塩尻峠。

塩嶺(えんれい)峠とも呼ばれるこの峠は、諏訪盆地と松本盆地を結ぶ、かの「中山道」由来の有名な峠である。
また、その旧街道中山道に対応する、現在の国道20号も、同峠を経由している為、そう“道路マニア”でなくとも「塩尻峠」の名前を出せば「ああ…。あそこね」程度のリアクションが返ってくる。

今回、その塩尻峠を取り挙げるのだが、中山道云々が、とか、この塩尻峠が原因で、国鉄中央線の大八廻りが云々、塩尻峠に至る、現国道20号の岡谷市側は、勾配を押さえる為に、旧中山道の3倍の延長をもって明治19年に建設だ!さらに、大野誠県令や「長野県明治七道開鑿事業」がね!、とかは語らない(←結構語っているよ…)

以下、これは3歳から20歳まで岡谷市に住んでいた、私の単なる私情、思い出話しだ。

塩尻峠一帯は「塩嶺御野立公園」となっている。

明治13年。明治天皇巡幸のおり、ここで休憩(野立ち、野立て)をされた記念として、この公園が整備された。
写真のここは、国道20号塩尻峠のピークであり、また御野立公園に入る玄関口である。

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  1. 2010/10/29(金) 02:21:00|
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長野県道20号 開田三岳福島線 小島隧道脇旧道 後編

長野県木曽郡木曽町三岳

小島隧道の旧廃道。

訪問日 2009/4/24



「横綱みまき培土」が待ち受けていた。

まあゴミがあると言う事は…。

終わりが見えた。

何だか名残惜しくて振り返る。

更に進むと、ここで何か建造物の基礎部分跡を発見した。
訪問時は何とも思わなかったが、今改めて思うとこの基礎部分跡は信号機、または交通誘導員の詰め所跡かも知れない…。と、言うか、そうであったらのならばいいなと思う。

これは前編でも述べたが、この旧道の現役時は軽車輌は勿論、トラックや下手をすれば御嶽山詣りの観光バスが通っていた可能性が多分にある。
戦前戦中のボンネットトラックやボンネットバスの中には全幅が2000mmを下回る車種(例えば戦前、日本初のバスである「スミダ・M型バス」の全幅は1830mm)があったから通れない事はない(ちなみに戦後のボンネットトラックやボンネットバスの全幅はモータリゼーション前夜祭でグイグイ2000mmを優に越えているから走行は無理だ)

それならば、こちら王滝村側(御嶽山側)と、今回の廃道探検の入口である木曽側の【小島橋(仮)付近(撮影日2009 1.04)】にそれら施設があっても不思議ではない。と言うか、無ければ困る。
何しろこの道はカーブミラーがあれば大丈夫という範疇ではない(この当廃道区間を歩いた中で、カーブミラーや標識。またはそれらを支える支柱等の痕跡はなかった。無論崩落による消失や、廃道化工事の際に撤去されていればそれまでの事だが、大体そもそも「カーブミラー」がいつ頃から採用されたのか私には分からない)

往時、簡易的な遮断板や笛をくわえた誘導員がちょくちょく「ピィー!」と笛を鳴らして交通整理をしていたのならば、それはとても素敵な風景だと思う。

まあそんなこんなで…。

旧道区間は終わる。

小島隧道を王滝村側からの見た旧道との分岐。


【現在地】

昭和32年開通の小島隧道の延長は140mである(写真では木曽側坑口が見えている。つまりはたった今、多少は緊張しながら歩いて来た旧廃道区間の行程は多く見積もってもせいぜい200mそこら…。まあ廃道歩きなんてそんなもんだ…苦笑)

では、この小島隧道の出現で当区間における交通事情の懸念事項は完全に解決したのかと言えば、残念ながらそうとは言えない。

なぜなら小島隧道のスペックは幅員5m。限界高4.8mだ 続きを読む
  1. 2010/09/19(日) 02:43:00|
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長野県道20号 開田三岳福島線 小島隧道の旧廃道 中編

長野県木曽郡木曽町三岳

訪問日 2009/4/24

【現在地】


ウフフな景色はまだ続く。

まだまだ、このくらいの崩れは“おかず”どころか“おやつ”の範疇だ。
この道がまだ現役であった当時の有効幅員は2.5mは無いだろう…(崩れ具合にもよるが、狭い所は2m有るかどうかも怪しい。巻き尺持ってきて計れば良かった…)
多分この旧道は、出生時から昭和32年に小島隧道が出来た事で息絶える末期までずっと未舗装で過ごしたのだろうが、まあとにかく昔の人は逞しいと言うか度胸があると言うか…、よくもまあこんな道を使っていたな、と正直思う。
一体いつ頃に開墾開通したのかは分からないが、何にせよ昭和32年に小島隧道が開通するまでは確実に使われていた訳で、少なくともこの旧道の末期の時代は所謂「モータリゼーション」前夜の時期だ。
肩に鍬を担いだ人同士は勿論、自転車やバイク、または手押しのリアカー程度のものならば、この道の行程ド真ん中にてお互い対向車(者)として鉢合わせをしても、最低では会釈、最高でも「ちょいとごめんなさいよ」の一言で済むだろうが、四輪の自動車や当時でも既に全盛であったオート三輪同士での鉢合わせはなかなかの修羅場だったと思う(ちなみに「オート三輪」と聞くとつい「ダイハツミゼット」を始めとする軽車輌車種を想像してしまうが、ミゼット等各社オート三輪は戦後を過ぎたかなり後に(後述有)開発された比較的上等な車種で、実際の戦前戦中または戦後直近のオート三輪等は乱暴な形容だが、バイクの後ろに適当なリアカーの荷台を繋げたようなものだ)

これはだいぶ後日になって調べた事なのだが、この旧道にて何らかの車輌が走っていたであろう昭和32年以前、軽自動車規格が一番最初に決められた昭和24年制定「運輸省令第36号車両規則」では全幅が1000mm以下と規定されている。

参考までに「オート三輪」の代名詞である先述「ダイハツミゼット(偶然にも小島隧道開通と同じ昭和32年から販売開始)」の全幅は1200mm。また昔の軽四輪車で有名な「スバルR360(昭和33年から販売開始)」の全幅が1300mmだ。
無論、小島隧道開通以降に販売された彼ら有名スター軽車輌はこの道を走った事はないと思う……、けれど、当時における一世一代の買い物である大事なピカピカ新車ミゼットや360で、廃止間近故にまだ比較的往時の姿を保っていたこの道をわざわざ走った“馬鹿野郎”がいた事を切に願いたくなるのは自分だけか。

尚、この軽自動車規格(その変容)についてはとても面白いので、参考にしたこちらのサイト様リンクを貼っておく【軽自動車検査協会】


振り返って撮影。
こんな道は“丁半博打”と変わらないじゃないか。
対向車との鉢合わせは勿論、暗い夜道や冬の凍結等、過酷な条件を言い出せば切りがない。

ただし、王滝川を挟んだこの道の対岸(王滝川右岸側)には、かの木曽森林鉄道の代表格である王滝線が大正末期から昭和後期まで走っていて旅客業務もしていたから、奥地である王滝村から木曽谷へ出る移動手段としての“道"としてみた場合、案外この小島隧道の旧道区間はさほど重要ではなかったのかも知れないのかな…。
いやいや、重要だったろう…。
実際調べたわけではないから断言は出来ないけど、どう見ても当時木曽谷~王滝村間(御嶽山参りの観光客も含む)における移動手段の利用人数者数だけで林鉄の王滝線か?それとも自動車か?と比較すれば、そりゃ大多数が林鉄派であり自動車派は少数であったろうが、しかし少数派であれ何であれ現にこの道を使っていた人(利用者)の心情にしてみれば、それは最重要問題の箇所であったであろうよ(こういった既存、または新規の主ルート改変における利用者数の比較や運用コストの比較。利便性の比較。そしてやってみなければ分からない“未来性" 続きを読む
  1. 2010/09/17(金) 03:31:45|
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