日常生活における、ありとあらゆる行為(食事中だとか、たまたま手を洗っていた時、だとか)の最中にて、とあるワード(言葉)を思い出して
「あの言葉とあの言葉の語感は似ているなぁ…」
などと、突然思い出して、まあその吟味についてはとりあえず自分が今直面している日常生活の作業(食事を終える。または水で洗った手をタオルで拭く、等々)を終えた後に、ゆっくり考えればいいや、と後回していざ落ち着いて…、となった途端に
「あれ?何だったっけ?」
となる事が多々ある。
最初前者の「〇〇」は分かっている。覚えている…、が、二つ目後者の「〇〇」は何だったっけ?
という奴。
この手の話しは私はしょっちゅうなので、いちいちブログにて書き起こしはしてこなかったのだが、今回は(どころかほぼ毎日だが…)余りにも酷い陥り方だったので記している。
今回私が陥ったのは、前者は「マセラティ」(イタリアの自動車メーカー)で、後者の「〇〇」が思い出せない…。
何だったっけ?
これを繰り返すと、実にたちが悪い事が起こる。
それは“自身の思考回線への記憶や言葉の割り込み”で「マセラティ」に似た言葉や語感を何とか思い出そうとしていたら、突如そこに割り込んで来たのが
「チェケラッチョ」であった。
当然違う…。明らかに違う…。のだが、その明らかに違う「チェケラッチョ」ではない、オリジナルの後者「〇〇」を思い出そうにも、後出しにも関わらず第一候補としていちいち頭にあがるのが「チェケラッチョ」だ。
こういう事態に陥った場合、一番良いのは“それについて考えたり思い出そうとしたりするのを一旦止めるのが一番”なのは私も経験上分かっている。なので、しばらく一切を考えずに忘れてバラエティTV番組を観た。
するとものの10分かそこいらで「マセラティ」と語感が似ている後者「〇〇」が沸き立つように思い出せた。
それは
「バケラッタ」(藤子・F・不二雄作の漫画「オバケのQ太郎」の主人公「Q太郎」の弟「O次郎」が放つ台詞)
であった…。
いや、当記事をお読みいただいている読者さま。どうか言わないで欲しい…。
「マセラティ」と「バケラッタ」はあんまり似ていないのは分かっている。
人生という限られた時間の中の「10分」の価値がどれだけ貴重なものなのか、またはそれを金銭的に換算するレート等は私は知らないが、何をしようが何に使おうが、時間は時間である。
これだけは人間皆平等に設定されている基準値なのだな…、と、思った私は、ついぞ
「枠」と「粋」は似ているなぁ…。
と、いう“フロンティア”に辿り着いたのである(←風呂敷を広げ過ぎだろ!しかも〆が雑!)
おわり。
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- 2016/12/04(日) 19:20:00|
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森林鉄道の奥深さ!これは永遠のテーマか!?
(写真はイメージです)
各林鉄路線における廃止年の特定は実に、むむ!難しい!
これは、当ブログ「こちら交通遺跡調査室」のリニューアル(悪あがき)をするにあたって、自分自身が過去に書いた記事を読み直していて、ふと、どころか“つくづく思い知った。いや、思い知っていた”事だ。
当ブログを書き綴り始めるちょっと前、まだ廃探索では駆け出し状態、青二才の頃であった当時(いや、現在でもそうだが…)知識は素人同然の私が「森林鉄道」なるものに喜々として初めて足を踏み込んだ時に、一番最初に躓いたのがこれであった。
「……(←思考中)え、え?うわ!これはややこしいなぁ…」
が、ファーストインパクトであったのを今でも鮮明に覚えている。
よく考えるよりも前、ちょっと考えただけでもすぐに分かる「林鉄調査における大問題」の壁。それは廃止年の特定だ。
確かに、材木等の“資源”を採れるだけ採って運んだら「はい、ここはこれでおしまい!レールを片付けろ!次はあっちだ!」の連続で、端から永久など一切約束されていない“使い捨て”を前提として臨時的に敷設された(早くて数ヶ月。長くて何十年程度で必ず廃止が約束されているのが森林鉄道の宿命だ(またその点からすれば長野県木曽の「王滝森林鉄道」は長寿命かつ、まさに「最後の森林鉄道」を冠するに値する存在だと言える
【関連記事】)
何とも森林鉄道の扱いは実に難しく悩ましいのを思い知った…。
いや、開通年の特定については実は割と分かりやすい(無論、何月何日の開通か?までの特定は難しいが…)
何故ならば、例えばその路線開通時に架けた橋梁が鋼鉄製であれば、そこに大体取り付けられている製造銘板を見れば大体が分かるし、または地元図書館へ行き、郷土史等を読めばこれまた大体が分かる。が、とは言え、これにも“罠”があって、実は鋼鉄製橋梁がとうの昔に製造されたもので、元々は全く別の場所に架設されいたものの転用・使い回しであったり、話しはちょいと逸れるが、そもそもその路線全体における架設橋梁が全て木造製木橋オンリーで展開されていた事で、製造銘板はおろか(木橋には製造銘板はついていない)廃止から月日が経った現在では、崩壊に崩壊を重ねてその痕跡すらも見当たらない等々色々ある。
大体「郷土史等を読めばこれまた大体が分かる」というのは、当時往時の全国各地、国営国有林を管轄していた各営林局営林署が把握していた資料を基にデータ化された『国有林森林鉄道全データ』であり、私営の林鉄データの資料は全くと言って良いぐらい残存していない。
これが、かつて日本全国各地にて走り、今では眠っている森林鉄道の現状だ(ダム建設にて沈んだ路線も多数あるのは周知であり、これもまた難しい問題でもある。←ダイバー免許を取得してダム湖に潜らない限り、水没部分にあるかつての路線跡は見られないし、そもそもそんな正直(←頭に“馬鹿”が付く)な手続きを経て潜ったところで、ダム湖に沈んだ林鉄路線跡などは、長年堆積した土砂によってダムの底よりも何十メートルも下に埋まっている…)
話しを戻すが、森林鉄道の調査はそれだけ兎に角難しい。
その廃止年が微妙に判然としないのは、果たしてそれが林鉄本線の廃止決定年なのか、または廃止作業が始まった年なのか、あるいは廃止作業完了年なのか?
その辺りで、どこか“ボンヤリ”しているのだと思う…(大体、林鉄路線を「もう廃止する!」と、指を鳴らした所で、すぐさま全てが消える訳ではない。敷かれていたレールの撤去回収作業や、林鉄車輌の上げ下ろし作業を考えれば、ものの一ヶ月二ヶ月そこいらで終わるものではないだろうし…)
ここで頼りになるのが地元の古老の存在である(現に私は、とある林鉄路線の定説とされていた廃止年を、数年上回る正確な廃止年を知り得る事が出来たし、または別地においては、一切ネット情報にはあがっていない路線(支線)跡の存在も知り得る事も出来ている)
林鉄調査における地元古老の存在や証言は大変貴重なのは間違いない。のだが、これまた“絶対”とは言い切れない。
こう言っては古老の皆様には悪いのだが、御本人の“思い込み”による間違った証言や誤情報がかなりあるからだ。
勿論、わざわざ私如き輩の問い掛けに対して、奇特にも答えてくれた古老が悪い訳ではない。
その証言を鵜呑みにするか、しないか、の私自身の問題だ(←これについては、複数人の地元古老達から聞き取り調査を行うのと同時に、古老御大から更に「事情に詳しいお知り合いをご存知ではないか?」と、更にご教示を願う事で大体解決が出来ている)
と、まあ…、森林鉄道の調査。そしてその完全把握なるものは、実に途方もない、まさに底無しの深淵に足を踏み入れるが如き“難行苦行”だと思う…。
昔、私が中学生の頃だったか、何かの雑誌にて「途方もない作業」の例えとして「琵琶湖をスコップ1本で埋めるのと同じ」という言葉があったのを覚えているが、まさにそれだ(まあ林鉄調査や廃止年の特定は、その例えとは真逆で“掘り起こしの作業”なのだが、途方もない事の例えとしてはピッタリだと思う…)
さてさて、ここまで当記事をお読みいただけている読者さまから
で、だからそれが何なんだ?
と、問われれば私としてはいやはや何とも答えられる言葉が見つからないのだが、それでも何とか見つけて言えるのは、それでも私は森林鉄道の跡を捜すのが好きだ!と、いう事ぐらいか…。
まあそれで良い。困るのも苦労するのも私自身だけなのだから。
【関連記事】【関連記事】【関連記事】おわり。
- 2016/11/15(火) 19:35:00|
- ●廃線 鉄道 森林鉄道
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先日。馴染みのコンビニお菓子コーナー、新商品の商品棚にてずらりと並べられた、やけにパッケージ(写真)の色が赤っぽく「辛子明太子味」という文字が目立つお菓子を見かけた。
私はポテトチップが大好きである。
大体の主要菓子メーカー(「カルビー」「湖池屋」や、割と最近に色々とあった「ヤマザキビスケット」や「ハウス食品」等々。いけなければ「山芳製菓」とか)のポテトチップは、定番は勿論季節期間限定問わず食べている)当然、購入した。
自宅へ帰宅後、すぐさまその新商品「ポテトチップ 辛子明太子味」を食べようと(ワクワクしながら)袋を開けたところ、それは「歌舞伎揚げ 辛子明太子味」だった…(余りにも衝撃が強すぎて、その「歌舞伎揚げ 辛子明太子味」を作った菓子メーカーを確認するのも忘れたぐらいだ…)
勿論、私は「歌舞伎揚げ」を含む米菓子も大好きなのだが(メーカー名は省くが各社の「醤油煎餅」や「柿の種」は好きだし、この「歌舞伎揚げ 辛子明太子味」自体も決して不味くはなかったのだが…)もはや好き嫌い。美味い不味いの問題ではない。
この時
裏切られた気分。
なるものを、正直、一瞬でも思ってしまった。が…「いやいや、ちょっと待て」とも思い、何とか立ち止まる事も出来た。
大体そもそもが、裏切られたも何も、そのお菓子が「ポテトチップ」なのか「歌舞伎揚げ」なのかを確認するのを忘れたのが原因であり、その原因を作り出したのは他の誰でもない私自身ではないか。
自称(というか、特に「食品関係」にて何かにつけて声高らかに)“私は消費者だ!”と宣う人がたまにいるが、その大体が言うのが「裏切られた気分」だの「失望した」だの等々…(おまけで言えば「二度と買わない!」)
こういった“軽口”は、自分の中で留めつつも、少なくとも他人様へは安易に吐くべきものではないな…、と思った。
“思い込み”なるものは、色々な意味で“魔物”なのだと思う。
おわり。
- 2016/10/31(月) 20:31:00|
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どうにもならない地方の現実。
山梨県と長野県の県境、国道20号沿いで見た数々の空き家、空き店舗跡、ドライブイン跡…。
あれは典型的な「ストロー現象(効果)」の結果。いやいや、素直に言葉を濁す事なく正直に述べるのならば“惨状”だった…。
ストロー現象?何だそれ?
これは本州と四国を結んでいる「瀬戸大橋」が開通する(ちなみに瀬戸大橋の開通は昭和63年(1988年)4月10日)」よりもずっと前の計画段階にて、当時の四国通産局総務部長の小野五郎氏が発した言葉なのだが、まず簡単に言うと、それまでの主要交通路に代わる新たな交通路(高速道路や新幹線等々が最たるものだ)が開通する事により、その新旧交通路に関連する都市や地域が衰退化したり繁栄化する現象や効果を表している(ちなみに、只今当記事にて取り上げている当該地での“それまでの主要交通路”とは「国道20号旧甲州街道」であり、また“新しい主要交通路”とは「中央高速道路」があてはまる)
「ストロー現象(効果)」について詳しい事を知りたい方は
【こちらへ】この「ストロー現象」は地方ではそう物珍しいものではない。私が住む地元でも、それまで街のド真ん中を通っていた主要交通路(国道)が、街の外苑を廻るバイパス化された事で“旧道化”した事で、交通量(人通り)が激減した結果、それまで国道通り沿いに並んでいた各商店が集客を見込めなくなって、一気に店を閉めて商店等が空き家だらけになってしまったのを間近で見ているし、長野県内その他の地域でも、同じような現象は散々見て来た。
いまいち「ストロー現象」についてピンと来ない方に平たく(しつこく)説明をすると、A都市(地域)とZ都市(地域)を結ぶ交通路があるとする(当然、その間にはB~Yの各都市地域が存在し、つまりは経由地点であった)
例えばトラックドライバーだ。
そろそろ昼飯時だな…、と、各経由地にてドライブインへ寄っていた。観光客だってそうだ。
ファミリードライバーのパパだったら子供がぐずるからジュースでも買うか。せっかくだからついでにお土産でも買うか…。
等々の大小問わず様々な経済活動が行われていた(もっと分かりやすい言葉で表現するならば「皆が各地域にてお金を落としていた」)所に、A~Z間を直接結ぶ新しい交通路(例えば高速道路)が開通すれば、さてトラックドライバーや観光客、ファミリードライバーのパパさんたちは、旧交通路or新交通路のどちらを選ぶのだろうか?と、問われれば、それは後者の新交通路になるだろう。何しろ便利だから(出発地がAでも目的地がZとは限らない。目的地がDなりXかも知れないが、どちらにせよその間にある経由地。地域はスっ飛ばされるし、つまりは誰も寄らなくなる)
そうともなれば、元々資本力がある商店(県内または全国店規模の企業等)は、さっさと店を閉めて、もっと集客力が見込める地域や、それこそ新交通路沿いへ移転するし(それまで大きな通り沿いにて当たり前のように営業していた大きい店。スーパーやホームセンターやコンビニが、ある日突然閉店するのはそのシグナルの一つであり、しばらくすると、ちゃっかり新主要交通路のバイパス沿いに移転している事が多々ある)逆に資本力がない個人規模の商店では「もうこれではどうにもならん…。店を閉めようか…」と、あちこちでの溜め息の繰り返しの結果、その地域の(県や市町村。またはその地区等々“スケール”は様々だが)の経済活動が低下して、最後には(無論、その“最後”に至るまでには相当な段階や各事情があるのだが、語り出すと切りがないのでやめておく)
「何だか昔と違って住みにくい不便な地域になっちゃったね…」
となって、人口が減って衰退化する。
例示したこれはあくまでも一例なのだが、これが「ストロー現象」であり、またそれが「過疎化」の一因であり、そしてこれが“地方の現実”でもある…。
この現象そのものについては、私なりに注視注目をしていたのだが、この長旅にて、長野県富士見町から同県茅野市に入ってから目の当たりにしたそれは、あまりにも大規模かつ長区間であり、はっきり言えば、あそこまで“酷い惨状”は、正直初めて見た(ちなみに、この現象自体に「ストロー現象・効果」と言う“名前”があるのを知ったのは割と最近の事だ)
私が車のハンドルを握りながら、思わず吐露した。
「うわぁ…」
とは、それなのだ。トラウマとまでは言わないが、正直ドン引きだった。
前回にて述べたが、長野県→静岡県→山梨県(車中泊)→長野県の長旅の終盤戦でこれ…。仕上げも仕上げの段階で“冷や水ビシャッ!”であった…。
まあ私自身、何とも楽しい長旅の終盤戦に入った事で、どこか心が浮かれていたのだろうが、それにしても…、である。
いやはや何とも…。旅路には何が待ち構えているのかは分からないから怖いし、またそれがあるから旅は楽しいのだと思う…。
おわり。
「って、おい!ちょっと!そういう締め括りで終わりなのかよ!」
と、思われる方々もいるだろう…、が、この問題については、もはや私程度がこれ以上あれこれ誰かに問うて語った所で、何かしらが解決する訳ではないと思っているし、自覚もしている。
冒頭に冠した「どうにもならない地方の現実」とは、この事だ(ただ注意したいのは「どうにもならない事」と「どうでもいい事」は違う)
唯一、私が言える事は(あくまでも私個人の私見なのだが)この「ストロー現象」なるもの自体は、何も土木技術が成熟していた昭和の末期に開通した「瀬戸大橋」がどうのこうの云々以前。
大正、明治どころか、それはそれは長く続いた江戸藩政期より前からもあったであろう「新道開鑿」によって、峠の茶屋の廃止やら地域、村そのものが消えた。そしてまたは新しく出来た。を何百年もの間でも、ずっと繰り返して来た事だと思う。
“現在”の国道20号沿い(甲州街道)で私が見た風景は“歴史”からすればほんの一瞬の断片の欠片にも過ぎないのだろう。
おわ…。ん?待て待て…。何だか似たような事を書いたような気がするな…。
【関連記事】これで本当におわりです。
- 2016/10/20(木) 20:10:50|
- ●交通遺跡調査室分室
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当記事には写真はありません。
正直なところ、当ブログにて一体どのジャンルに区別をしてこの記事を書けば良いのか迷ったのだが…。まあ良い。一応“交通”についての事なのだから、ちょいとどころか結構語り散らす。
ここで突然の私の趣味趣向の告白で申し訳ないのだが、私はたまのある日に「何ら目的地を決めずに東西南北の一方向へ車を走らせる」のが好きだ。と、告白すれば、さぞ北は北海道、南は九州みたいなスケールの大きさを感じる方がいるだろうし、実際にそれだけのスケールを走る“旅好き。旅のプロ”な方々も存じている。が…、私の“あてのない旅”の東西南北のスケールは、私自身が住んでいる町の中か、せいぜい隣町の隣町(×6)程度で、まあまあ大体が長野県内で完結する“ミニ旅ドライブ”である(逆に言えば長野県はそれだけ広い)
そんな私ながらも、大それた、と言うべきか「長野県の外へ行ってみたい!海をみたい!」と、突然思い、今から7年前の2009年10月に、まずは自宅から北の方向へ向かったドン詰まり。新潟県まで行き日本海を見た。長野県では口にする事が出来ない海の幸(天丼)も食べた。大変おいしゅうございました…。
「いや~。やっぱり日本は広いし、旅は楽しいし、海はいいなぁ!何しろ海の幸は美味い!」
であった。
まあ、そりゃそうだ。
そこでそれ(長旅の楽しさ)に味をしめた私は、その二週間後には自宅から南方向。静岡県へ行き、ドン詰まりの太平洋の海を見た(残念ながら“海の幸”にはありつけず、深夜現地での食事は「すき家」であったが、お腹が空いている時にものを食べられるだけでも有り難い。それも旅の醍醐味だ)
そしてこれまた当然楽しい旅であり、旧東海道の国道1号を走り、山梨県へ向かう国道52号に入ってからは、道路脇の駐車スペースにて車中泊をした。
翌日の早朝には現地にある某廃隧道を見てから、再び国道52号を北上し、国道300号を経て、富士山をマジマジと見た。
そして再び国道300号から国道52号へ戻り、北上して(少なくとも私には馴染み深い)国道20号甲州街道を走り、最後には国道153号を南下して自宅へと帰宅した(←この、自分が知っている道路番号の矢印を示す青看板を見た時に、心の中で「自分は自分の居場所へ向かっている。帰っているんだな…」という“変な安心感”湧き上がるのは私だけはないと思う)のが、この長旅の大体の行程だ。
まあとにかく、何とも素敵“最高な旅”ドライブだったのだが…。“あれ”を見たのは、この旅だった。
皆様にもあるのではなかろうか?
先程述べた“最高な旅”なる、そんな100点満点の旅なんてものはないと言う事を。旅には様々なトラブルが付き物だ。
そのトラブルの種類については大小様々であるから敢えて列挙はしないが、私が出会ったトラブルとは物理的なものではなく精神的なものだ。
「……」
「……、…」
「…、うわぁ…」
と“見たくはなかった”ものを見た…。
山梨県にて国道52号から国道20号へ入り、いざ、我が家がある長野県を目指した、のは先にも述べた。
実際のところ、案外、と言うのが正直な感想なのだが(これまでの旅路の過程の長さからすれば当然かも知れない)国道20号に入ってからは、あっという間に県境を越えて(私的には県境を示す『長野県』の表示看板を見た時は“越えた”のではなくて“戻った”と感じた)まあとにかく、長野県に戻った。入った…。の、だが…。
そう、国道20号にて山梨県と長野県の県境に位置する、山梨県北杜市小淵沢町を走り抜け、隣接する長野県富士見町から同県茅野市に入ってから。
言わばこの長旅の終盤戦、別の言葉で言えば、長旅の“仕上げ”の段階である。
国道20号を走っていて、私の心の中で、所謂“三点リーダー”「…」が始まった。そしてそれが過ぎるとすぐまた「…」があり、また「……」の連続だ。
さて、一体この「…」は何なのか。
国道20号沿いの街並み、というか家々が、どれもこれも、右を見ても左を見ても、かつては立派であったであろう“古い空き家”ばかりなのだ。
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- 2016/10/20(木) 20:00:00|
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