野尻森林鉄道 野尻向鉄橋(木曽川橋梁)

0 0
長野県木曽郡大桑村大字野尻

訪問日 2009/1/31

【地図】

【大きい地図はこちら】

総称「木曽森林鉄道」と呼ばれる木曽谷の林鉄網の中のひとつに「野尻森林鉄道」がある。
旧国鉄中央西線、野尻駅を起点として、そこからあらゆる幽谷へと網を広げていた。
当路線の開通年は大正12年で、廃止は昭和40年ぐらいの頃だとされる(未確認)

また、当路線については、まこと有り難く、尊敬するべき「木曽林鉄攻撃隊(先人たち)」のレポがいくつもあって、私もネットで見て知った瞬間から「この鉄橋だけは絶対に見てみたい!」と、ずっと思い、そしてついに2009年の1月31日。本懐を遂げる事が出来た。

写真右側に(かろうじて)見える村道を外れて、この実に味のある農道へ入る。カーブの具合からして廃線跡の香ばしい匂いが漂う。

ちなみに、この写真を撮っている私の背後方向が、野尻林鉄の起点である野尻駅方面だ。更に進む…。

“何か”がある…、と言うよりも“あいつ”が待ち受けている!
散々、直接、我が眼で見たかった“あいつ”が!

ぐぅ!
脇へ廻る…。

でたーーっ!うっきょーー!

で、さっき最初に突き当たったこれ。

この橋台の裏側だったのだ。

この最高の“お立ち台”によじ登りたい気持ちも正直あったのだが、それはやめておいた。
理由としては、大体からして「橋台の裏側なるものが露出している姿」は、本来有り得ない状態であり、それを無理矢理よじ登ったが結果、積まれた橋台部分の石や、未だに残る(本橋架設当時は従事者が一所懸命に、突き堅めたであろう)土を削り落とす行為は、私としてはやりたくなかった。

尚、上の写真の通り、橋台の下は「そのまま木曽川へ逝っちゃいな!」的な“無慈悲”な仕様ではなくて、きちんと通れる(潜れる)事が出来る…、が、それはそれとして…。

今まで歩いて来た農道は、かつてはもっと高い築堤が続いていた筈なのだが、つまりは、橋梁における肝心要の橋台部分の裏側が露出していると言う事は、そこへ行く築堤は削られてしまったという事になる。

一径間目。ごっついワーレントラス。その向こう(木曽川下流)には、車道橋の「野尻向橋」が見える(後で出る当橋の「遠景写真」は、この車道橋から撮影した)

さて【歴史的鋼橋集覧】を参考にしながら、この鉄橋のスペックを紐解いて行きたい。

木曽川を跨ぐこの鉄橋は、大正10年に「日本橋梁株式会社」による製作拵えで、正式名は当記事のタイトルにもある「木曽川橋梁」だ。

と、ここで調べていて分かったのだが「日本橋梁株式会社」の創立は大正8年(1919年)である。
と、なると、この「日本橋梁」よりも“一足”早く、明治40年(1907年)に創業創立した橋梁会社の名門である「横河橋梁製作所」(現「横河ブリッジホールディングス」)を差し置いて…、というか、そもそも、いつの時代においても“12年”なる年月は“一足”どころでは済まないと私は思う…(特に“その時代”における“最先端技術が必要とされる事業”においては、それが顕著ではなかろうか。例えば、昔は鉄橋の架設。現在ではIT技術とその開発だとか)

そんな中「日本橋梁」は、これだけの規模の橋梁の製作を任されたのだから、当時の「日本橋梁」社内における、この「木曽川橋梁」製作に対する意気込みは、かなりのものであっただろうと思うし、またそれを想像するのも難しくはない。
まあ、あの時代に(言い出せば今現在でも“それ関係”でニュースになる事が多々あるのだが…)「厳格なる競争入札制度」があったのかどうかは知らない。が、少なくとも架設どころか廃止を経てから半世紀。いわば“放置状態”でありながらも、この「木曽川橋梁」がこうして現に建ち続けている事実からして、当時の「日本橋梁」が“良い仕事”をしたのは間違いないと言えるだろう。

(以下追記)
尚、ついでに言えば「日本橋梁」「横河橋梁」と来れば。もう一つの橋梁製作会社の名前を頭に思い浮かべる方もおられると思う。
「横河」「日本橋梁」と来れば、橋梁“三羽烏”のもう一つ。しかも何故だか、その会社が製作した橋梁は、見た目格好だけで「この橋の造りは“さくらだ”だな…」と分かってしまう(※私個人の感想です)橋梁製作会社「櫻田機械工業株式会社」(大正9年創立。最終時は「株式会社サクラダ」)が、近年どころか、昨日か一昨日とも思える、2012年(平成24年)にて、破産していたのには驚いた。
(2016/8/16 加筆)


こちら木曽川左岸側から順番に橋の構造を見てみよう。

と、言う訳で、先程述べた車道橋の「野尻向橋」から撮影した遠景写真を用意した。

木曽川左岸(遠景写真での右側)から順に、上路ワーレントラス(長さ24.4m)次に大迫力の、下路曲弦プラットトラス(長さ61.0m)次に、上路プレートガーダー(長さ15.9m)そしてまた、上路プレートガーダー(長さ15.2m)で、最後も上路プレートガーダー(長さ15.2m)の、計五径間、全長134.6mの長さで対岸の木曽川右岸側へ渡っている。

再び遠景写真。
当橋を渡った木曽川右岸側(写真の左側)には「野尻向停車場」があり、そこを起点にして「殿線」が、写真の奥方向(木曽川右岸上流方向)に分岐していた。
また本線「野尻森林鉄道」は、写真手前方向へと行く。
そして、約1.5km程、木曽川右岸沿いに下流へ進んだ場所に「阿寺停車場」があった。
今現在で言うと「フォレスパ木曽」【地図】がある場所だ。

【ちょっとだけ大きい地図はこちら】

往時は、この「阿寺停車場」にて、この「野尻森林鉄道」と呼ばれる路線の終点となっていた、のだが…、木曽の林鉄はこれだけでは終わらない。終わる訳がない。

「木曽の林鉄」は、どこまでも行くものだ。まさに「木曽林鉄の線路は続くよ。どこまでも」である。

この「阿寺停車場」から、スイッチバックで北上して、阿寺川、阿寺渓谷を遡行する「阿寺線」がここを起点していた。
更に、この「阿寺停車場」から南下した後に、柿其川、柿其渓谷を遡行する「柿其(かきぞれ)線」の起点でもあった。
まあ、何とも「野尻林鉄」だけで並べても「殿線」「阿寺線」「柿其線」と、林鉄路線跡の“盛り合わせ状態”である。
しかもこの各線が、ほんの一時期、短期間だけ敷設使用され、その価値が無くなればすぐさま廃止された「作業用支線」の軌道跡みたいに、今となっては「何だか平らな所があるよね…」みたいなものであるのならば、まあ何とか、この「野尻林鉄」や、その総称たる「木曽林鉄」を語るにあたって“話しのオチどころ”と言ったら変なのだが、言えば「つまりは、野尻林鉄や、木曽林鉄はこういうものでした(チャンチャン!)」で、括り終われる事も出来るのだろうが、各線どれも、あっちもこっちも一級線(「殿線」には“Ωループ跡”がある(らしい…)し、「阿寺線」には未だ鉄橋が架かっている。おまけに「柿其線」に至っては「阿寺停車場」から南下して「読書ダム(←どくしょ、ではなくて、よみかき)」を過ぎて南下すると、初っ端から隧道を何本も掘り抜き散らしている!らしい…)

ここで、私は告白する…。

どうやら「木曽林鉄」は私程度では到底、手に負えないみたいだ…、と、当記事を書いている時…。いやいや、今更取り繕う必要もあるまいよ…。
以前、当ブログにて書いた【王滝森林鉄道 序(二号隧道)】の執筆中にて既に自覚していたのだ。

この「野尻林鉄」を含む、総称「木曽林鉄」全線の完全制覇を目論むのならば、普通の人間の人生一つ分、どころか二つ分(かかる年数で言えば、百年から二百年。熱意で言えば、まさに人生二つ分における“ただそれだけにかけるだけの熱意”)が必要になるな…、と。

私は今でも“林鉄跡”探しや、そこ歩きは大好きだ(所謂、つまみ喰いだが…)
しかし、この「野尻林鉄」を含む「木曽林鉄」にて、未だどこかに残っているであろう「路線跡」の“完全制覇”なるものは、この時“キッパリ”諦めた…(それ故に、繰り返しの重ね重ね、になるのだが、まさにその人生をかけて「木曽林鉄」を調べ歩いている“先人たち”には頭が下がるのだ)

まあとにかく、それを進めば、我が人生二つ分を穫られるのであろう、魔王の袖の端、裾の端である「木曽川橋梁」の橋台を一回りした。

この写真が一番分かりやすいのだが、最初にこの橋を真正面から見ると【参考写真】二径間目の下路曲弦プラットトラスの先を見ると“次が無い”ように見えるのだが、三径間目から左に曲がっているからそう見えるだけだ。
再び下に潜る。先程はサッサと通り抜けたが今度は潜った“特典”である“上”を見てみよう。

枕木がそのまま残っている…。

支承部分。

おお…。
すると上を向いて撮影している私の背後、橋台から「上ばかり見てないでこっちも見てよ…」と声を掛けられたような気がした…。
振り返ると…。

すまない…。

個々の単語の意味は分かるのだが、それを羅列した標柱や、看板がなぜここにあるのかは私には分からない…。

まあとにかく、君はしばしこのまま、ここにいてくれればそれでいい。

おわり。
ページトップ