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国道20号 塩尻峠 後編
2010/10/30 02:10

長野県岡谷市今井

訪問日 2009/9/27

幻影灯の残像。

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私が4、5歳であった頃の話しだ(前編にて述べた「塩嶺会館」の入館料云々よりも数年前の話し)

当時、今は亡き我が父が料理人として「展望台レストラン」に勤めていた。

そんなある日、父が私を車に乗せて、この峠へと向かった。
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峠は大勢の観光客で賑わっていた。
国道(この旧廃道)の両脇は、路上駐車をしている車が数珠繋ぎで停まっていた。
【公園駐車場】付近は、車がビッシリ、ギチギチ駐車状態で停められる隙間もない。

「停めらんねえなぁ…」

父は“隙間”を探すべく、あちらこちらへと車を走らせた。

「ここも停めらんねえなぁ…。あそこも駄目だろうなぁ…」

あっちこっち、その度に車のハンドルをグルグル回していた。

結局、この国道(旧廃道)の両脇にて路上駐車をしている車の群れの隙間を見つけ、そこへ車を停めた。
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当たり前のように話しているが、そんな事は現在は勿論、当時でも許されるものではない。交通量が多い、天下の国道の峠のピーク。ましてや見通しが悪い線形のカーブの両脇が、路上駐車をしている車で数珠繋ぎ状態!など、もはや“異常事態”である。当然だが、確たる「道路交通法規」は、あの頃(昭和50年代前半)でも間違いなくあった。の、だが、当時、それを実際に取り締まる者もいなければ、たしなめる者もいなかった。むしろ、それを歓迎していた節さえもある。つまりは所謂、良くも悪くも「そういう時代」だったのだ…。
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車を降りると、即座に「ワイワイ!ガヤガヤ!」という表現がピッタリと合う喧騒に囲まれた。
「塩嶺会館」の辺りには、焼き甘栗や、焼きモロコシ、焼きイカの等々の出店が並び、またその出店に並ぶ観光客らは、まるで一粒の砂糖に群がる蟻子たちのようであった…。

一体どこから来た観光客なのか。地元の人なのか、それとも他県から来た人なのかは分からない。分かりようがない。

若いカップルやら、家族連れやらと様々だったが、私自身が生まれて初めて経験したのは「人とすれ違う事がこんなに難しい事なのか!」という“人混み雑踏の混雑”だった。

私は、はぐれないように必死に父の後を歩いた。
ふと、私の目の前を、自分と同じぐらいの年頃の子供を肩車しながら歩く、どこかしらのお父さんが横切った。

私は父に肩車をされた事がない。
とても羨ましく見えた…。が、父に肩車をせがむどころではない混雑だ。
とにかく前を歩く父の後を早足で追った。

職場である「展望台レストラン」へ向かった父は、そこでしばらく職場の仲間らしい方々と“挨拶以上。打ち合わせ未満”程度の話しをしていたようだった。
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父は踵を返すと、ただ一言「帰るぞ」と、私に言った。
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無言で後に続く私。
またまた雑踏を掻き分け、国道上へ路駐した車へ向かうのだが、突然、父は停めてあった車とは、全然違う“あさって”の方向に進んで行く。

不思議に思いつつも、私は父の後を追った…。

行き着いた先は、峠の売店だった。

父は、売店の売り子のおばさんに声を掛けると「ゴー!ガー!」と、うるさいコンプレッサー音をあげる、アイスクリームボックスのサッシを開けて、徐にアイスキャンデーを取り出し、私に「ほれくえ」と、差し出した(大体分かるとは思うだろうけれど、全国的に通じる言葉で言うと「これを食べろ」という意味です)

ここで評するのも何なのだが、我が父は滅多に子供に菓子の類などは買い与えない人だった。

そんな父から、突然私に差し出したアイスキャンデー。しかも、その代金を支払った風でもない(今で言う「従業員特典」や「顔パス」何てものは、子供の私が知る訳もない)

これは一体どうしたら良いのか…、と、戸惑った…、のは覚えている。そして、そんな父から唯一貰った菓子の類が、後にも先にも、そのアイスキャンデーだったのも覚えている。

それなのに、確かに私自身が我が手で受け取り、峠から岡谷市街にあった、当時の自宅へと下る車の中にて、間違いなく食べたであろう、そのアイスキャンデーの味が思い出せない…。
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そんな思い出の売店は、今では沈黙している(注:今現在この売店跡は、綺麗さっぱり撤去されてしまって痕跡すらありません。2016年6月に追記)

この時、幻影灯の灯りがパッと消えたような気がした。

ここで私は我に返った…。という程、実際は文学的ではなかったのだが(苦笑)ふと周りを見ると「山自体を丸々削る」という“荒技”で線形改良を成し遂げた、現在の国道20号の現道が通っている。
やはり天下の国道20号「塩尻峠」だけあって、現道でも昔と相変わらず忙しく自動車がビュンビュンと行き来をしている。
あの頃、昔と違うのは、走る車の速度と、そのエンジンの回転数音だ。

昔、よく見た峠の風景「ノロノロ速度で、エンジン音ガーッ!」何て車は一切いない。

明らかに速度は速く、またそのエンジン音は静か。擬音で例えれば“スーン。ススーン”である。

当然、現道にて路上駐車をしている車などは一切いない。
もしもいたらのならば、それは故障車なのだろうが、今の車は“走行に瀕するまでの致命的な故障は滅多にしない”ものだ。
つまりは、それを得るだけの“現在”という時間、時代が進んだ、という事か…。

一体あれから、何年…、何十年経ったのだろうか。

前編にて「塩嶺会館」ついて「その“存続”など一切考える事はなかった…(略)私は大人になったという事だろうか」などと、述べたが、今こうして大人となった私は現にこの地に立っている。

この時に思った。そして今でも考えている。

「峠」というだけで、そこが観光地(その始まりから言えば「峠の茶屋」から始まる“商売”)として成立していたのは、一体いつの時代から、いつの時代。何月何日までだったのだろうか?

何であれ、この「塩尻峠」に残っているであろう、数え切れない思い出の全てが無に帰する事はないと思っている。

今回、私は当記事を書くにあたって、この【航空写真】を見て、確信した。

おわり。

カテゴリ:●廃道

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