国道20号 塩尻峠 前編

0 0
長野県岡谷市今井

訪問日 2009/9/27

思い出の峠。

【地図】


【大きい地図はこちら】



長野県岡谷市と隣接する塩尻市の境にある中央分水嶺、塩尻峠。

塩嶺(えんれい)峠とも呼ばれるこの峠は、諏訪盆地と松本盆地を結ぶ、かの「中山道」由来の有名な峠である。
また、その旧街道中山道に対応する、現在の国道20号も、同峠を経由している為、そう“道路マニア”でなくとも「塩尻峠」の名前を出せば「ああ…。あそこね」程度のリアクションが返ってくる。

今回、その塩尻峠を取り挙げるのだが、中山道云々が、とか、この塩尻峠が原因で、国鉄中央線の大八廻りが云々、塩尻峠に至る、現国道20号の岡谷市側は、勾配を押さえる為に、旧中山道の3倍の延長をもって明治19年に建設だ!さらに、大野誠県令や「長野県明治七道開鑿事業」がね!、とかは語らない(←結構語っているよ…)

以下、これは3歳から20歳まで岡谷市に住んでいた、私の単なる私情、思い出話しだ。

塩尻峠一帯は「塩嶺御野立公園」となっている。

明治13年。明治天皇巡幸のおり、ここで休憩(野立ち、野立て)をされた記念として、この公園が整備された。
写真のここは、国道20号塩尻峠のピークであり、また御野立公園に入る玄関口である。


かつて「御野立公園」と言えば、岡谷市の最大観光スポットのひとつであり、また地元民の憩いの場でもあった。
これは私の親世代から聞いた話し(昭和30年代頃の話し)なのだが、当時岡谷市にあった各職種の会社、各職場社員のレクリエーション(今で言う“コンパ”)の場と言えば、とりあえずどころか、猫も杓子も、この「御野立公園」だったと聞く。

かくいう私にも、この「御野立公園」の往時の頃の風景には多少の記憶がある。
私がそう、4、5歳の頃だったか…(昭和50年代前半頃の記憶)

一体あれは花見だったのか、それとは違う何かの季節行事だったのかは忘れてしまったが、この公園内には電信柱に沿って、無数の提灯が吊されていて、その提灯の下では、大勢のネクタイ鉢巻姿(略して「ネク鉢」)のサラリーマン達が、呑めや唱えやのドンチャン騒ぎをしていたのを覚えている(←もはや現在となっては「ネク鉢」など、アニメ「サザエさん」でぐらいでしか観られない“伝統芸”となってしまったが…)

それが今では、せいぜい社用営業車や、旅車ドライバーの休憩所。と、言ったものか。かつての喧騒などは微塵も感じられない。
私が見た「ネク鉢」の記憶は、幻影灯の明かりが映し出した“幻”だったのだろうか…。

かつて、ここには「塩嶺会館」なる郷土歴史館“風”の建物があった。

私が小学生(高学年)の頃、当時仲良しだった同級生3人らと訪れて、後にも先にも一回だけ入館した事がある。
当時「塩嶺会館」は入館料を徴収していた(所謂「大人 \〇〇〇 小人 \〇〇〇」と言う奴なのだが、この“〇”の中に入る数字は覚えていない…)
はてさて、友人らとここまで来たのは良かったのだが、いざ入館しようにも、その入館料を支払うだけのお金が無かったのだ(私を含めて、3人それぞれがズボンのポケットの中に持ち合わせていた、多かれ少なかれの“小遣い”をかき集めて合算してみても、全員が入館するに足りないのは一目瞭然だった…)

あの時、建物の入口前にて「どうしよう…」を繰り返す“子供会議”をしたのを覚えている。
もしも仮に、そんな我々の状況を、適地にて画家が眺めながら油彩画で描写をしていたのならば、その後に出来上がった絵画の題名は『お金に困った子供たち』で間違いない風景だ(苦笑)

まあ当然、そんな空想の画家などは存在しなかったのだが、ただ、そんな我々見ていた人は実際にいた。

「塩嶺会館」の係員のおじさんである。

ずっと会館内から画題『お金に困った子供たち』の画を見ていたのであろう。
会館の扉を開け放ち出て来るや「僕たち、お金足りないの?いくら持ってるの?」から始まった問答の結果「今日は暇だからいいよ!」と、確か、3人分まとめて「小人 1人分」程度に入館料を“オマケ”をしてくれた。

とても嬉しかった。
「こんな大人もいるんだ…」と思いつつ、喜びながら入館した。が…、館内に先客は誰一人もいない…。
静まり返った館内には、鼬やら狸やらの剥製がズラリと並び、また「蚕糸の街 岡谷」を、声高らかに紹介する様々な資料の展示…。

「一体これのどこで、いつ楽しんで笑えば良いんだ?」

あの雰囲気を一番分かりやすく例えるのならば「学校放課後の理科準備室」だ(←娯楽の要素などは全くない)
正直「金を払ってこれかよ…」と、実につまらない展示内容だったのを覚えている。

子供だったあの頃、あの時は、その“存続”など一切考える事はなかった…、が、今となれば「そりゃこうもなるだろうよ」と思えるだけ、私は大人になったという事だろうか。

そして写真右側には、峠から諏訪湖を一望する「展望台レストラン」があったのだが、現在(いま)となっては「塩嶺会館」と同じく、建物は全て取り壊されいて何にも残ってはいない(ちなみに「展望台レストラン」跡は資材置き場となっています)

てか、おいおい。

ここは「交通遺跡」のところだろ?

はい、勿論そうです。

ありますよ。

“廃”な奴が…。

【後編】へ続く。
ページトップ